京都の鴨川に架かる橋の中で最も重要な四条大橋の眺め。
この橋を渡って山に向って歩くと、祇園祭で有名な八坂神社に行き着く。八坂神社への道は今では非常に広いが、この写真の頃は依然として狭かった。
橋の上には人力車や洋式の傘を差した通行人が見える。日本の傘と区別するために、これらの傘は蝙蝠傘と呼ばれた。
八坂神社の社家記録によると、この場所に初めて橋を架けたのは1142年(永治2年)のことで、当時は小さな橋で大橋とは呼ばれなかった。それでもこの橋は祇園祭の祭列や神社への参詣人が鴨川を渡ることができる、京都では大切な橋だった。
初めて四条大橋ができたのは、1857年(安政4年)で、石の橋脚に木造の橋を架け渡したもの。
鴨川は度々氾濫したので、橋はよく流された。古い船橋も度々同じ目に会った。だから高価で大きな橋を架けるのは無意味だった。
その代わりに京都では渡し舟を利用するか、簡単な橋を架けた。これらは通常両岸から川の中に数多くあった砂州の一つまで架かり、砂州には小さな料理屋や芝居小屋が立ち並んでいた。このような橋が洪水で壊れても、少しの費用で直ぐに架け直すことができた。これとは無関係だが面白いことは、鴨川の橋は歩行者用と荷物を運ぶための橋に分かれていたこと。

初代の四条大橋は大きくて石の橋脚だったにせよ、1873年(明治6年)の洪水ではこれも流された。この写真に写っている新しい橋ができたのは、1874年(明治7年)の四月である。鉄製で両側に四本の街灯があった。この頃の新しい橋が全てそうだったように、岸から岸へ架かっていた。1
我々にとっては、この風景は昔風で郷愁を誘うかも知れないが、当時の京都市民には大変モダンに見えたに違いない。橋は鉄製で、人々は洋傘を差し、人力車が多く行き交い、アサヒビールの大きな広告があり、橋に沿って電柱がある。これらは全て明治時代の新機軸だった。
これらの電柱は実際に撮影時期を知る助けになる。京都の電力会社だった京都電灯会社の創業は1889年(明治22年)だから、この写真はそれから後に撮影されたもの。遠くの背景にある山側(円山)に見える也阿弥ホテルは、1899年(明治32年)3月25日の火事で激しく焼けたので、この写真は1899年以前の撮影とわかる。恐らく1890年代の後半だろう。2
1913年(大正2年)になって、路面電車を通すために京都の道路を拡張した際に、橋は再び架け替えられた。この度はコンクリート製で、アーチ型のデザインが特徴だった。(「1926年の京都 • 鴨川」参照) しかしこのデザインは1935年(昭和10年)の洪水の際に大きな問題を惹き起こした。流木がアーチの間に引っかかって、その結果溢れた水が近隣に被害を与えたのである。そこで、1942年(昭和17年)にまた新しい橋が架け直され、この橋が今もある。3
鴨川のもう一つの眺めは、「1890年代の京都 • 鴨川」にある。

脚注
1 白幡洋三郎 (2004)。幕末・維新彩色の京都, 京都: 京都新聞出版センター, 38。ISBN 4763805312
2 京都ホテル100年ものがたり 。26.「也阿弥ホテル」の火事。 Retrieved on 2008/07/01.
3 ウィキペディア。四条大橋。2008年7月1日検索。
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引用文献
ドゥイツ・キエルト()1890年代の京都・四条大橋、オールド・フォト・ジャパン。2025年03月17日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/499/shijo-ohashi-jp)
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写真番号:70523-0011
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