70319-0007 - Osaka 1880s: Shinsaibashi Bridge

1890年代の大阪
心斎橋

撮影者 日下部金兵衛
発行元 日下部金兵衛
メディア 鶏卵紙
時代 明治
場所 大阪
写真番号 70319-0007
注文 デジタルデータ
著者
翻訳者

心斎橋(心斎の橋)から北大阪を見た写真。

橋を渡った辺りは書店が多いことで知られた。背景にある大きな建物は、北御堂と南御堂で何れも仏教寺院。写真左の洋館は電信支局。

70512-3763-1 - 大阪心斎橋
平成19 年(2007年)・心斎橋、明治の写真とほぼ同じばしょ

心斎橋付近は、新町の紅灯街や道頓堀の芝居小屋街に近かったので、商店街として栄え、漆器、書物、古道具、琴三味線、紙飾や飾り物などを売る店があった。今は大丸百貨店になっている老舗の呉服屋はこの写真が撮影されている心斎橋筋にあった。

写真の洋式鉄橋は、1873年(明治6年)にドイツから輸入したもので、長さは37.1メートル、幅は5.2メートル。大阪では二番目に大きく、全国でも五番目に大きな橋だった。

それ以前の橋は、岡田心斎が1622年(元和8年)に架けた木造の橋で、長さは35メートル、幅は4メートル。橋の名前は、岡田心斎にちなんだもの。岡田心斎は、長堀の運河を開削した4人の商人の1人。この鉄橋は1909年(明治42年)に架け替えられて石橋となった。1

明治26年(1893年)の大阪の地図
明治26年(1893年)の大阪の地図:1.西横堀、2.東本願寺(南御堂)、3.四ツ橋、4.長堀、5.心斎橋、6.大阪城

長堀の運河は、1964年(昭和39年)に埋め立てられて、長堀通となった。それと同時に石橋は歩道橋に転用された。昔は絵のような風景だったこの運河は、騒がしい車がひしめく大通りに変わっている。大阪の美しい場所が一つ永久に失われた。2

元の鉄橋は、1973年に再建されて、1989年3月に大阪の鶴見緑地に移設されている。3

1997年には、以前運河であった場所に地下商店街と娯楽施設ができた。建設費は770億円という途方もない額だった。石橋の一部は、横断歩道になっている。4

長さが730メートルある、このショッピングアーケードの約3分の1はガラスの屋根で、その上を水が流れている。橋の一部と水のお陰で、運河は決して姿を消したわけではないと思わせるに違いない……..

現在の地図を見る

脚注

1 心斎橋筋商店街振興組合、心斎橋の年表。2007年3月30日検索

2 大阪市、心斎橋(しんさいばし)。2008年2月3日検索

3 大阪市鶴見区役所、初代心斎橋。2007年3月30日検索

4 関西広域機構 関西広報センター、復元心斎橋の下に“川”、地下街のガラス天井に水を流し。2007年3月30日検索

公開:
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引用文献

ドゥイツ・キエルト()1890年代の大阪・心斎橋、オールド・フォト・ジャパン。2025年02月08日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/79/osaka-shinsaibashi)

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写真番号:70319-0007

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