背景に見える浅草寺への参道に沿って立ち並ぶ商店の前を通り過ぎる群集の写真で、1934年5月に撮影されたもの。男性の殆どが、子供でさえ既に洋服を着ているのに、女性が未だ着物姿なのが目につく。
この写真でわかるように、仲見世と呼ばれたこれらの店は人々を大いに楽しませた。これらの店の起源は、1700年代に浅草で始まった酉の市と呼ばれた収穫祭にある。111月に行なう祭で、人々の長い列が田圃に沿ってうねうねと浅草寺まで続き、参拝すると同時に楽しむものだった。当然、それらの人々を目当てに目ざとい商人達が大勢やって来た。
彼ら商人達や芸人達は、多くが寺の裏にあった歓楽街の浅草寺奥山に集まった。これらの店は大変繁昌して、浅草名物と呼ばれる特別なものが生まれた。例えば、浅草海苔、浅草紙、跳んだり跳ねたり(右の絵にある、飛び跳ねる小さな玩具)、それに柳か潅木で作ったふさふさした爪楊枝で歯ブラシの前身の房楊枝などがあった。
多くの店では客寄せのために綺麗な女を雇い、彼女達は看板娘と呼ばれて江戸時代の有名人になったものもいた。彼女らは有名な浮世絵師の鈴木春信(1724~1770)や、喜多川歌麿(1753~1806)の題材にさえなっている。特に有名だったのは、房楊枝屋の柳屋の看板娘のお藤で、左の鈴木春信の浮世絵、「楊枝屋お藤」に描かれている。彼女は明和年間(1724年~1770年)の三美人の一人だった。2

1885年(明治18年)になると、浅草で初めてのモダンな煉瓦造りの店ができた。仲見世で商売する商人は籤引きで選ばれ、それ以外の店は全て寺の境内から追い出された。
1923年の関東大震災でこれらの店は破壊されたが、1925年にはコンクリートで再建された。1945年の東京に対する焼夷弾爆撃でまた破壊され、戦後再建されている。
これらの店は今も未だ残っていて、大勢の人々がやってくるが、今では日本人より外国人が多い。

浅草寺辺りの娯楽についての詳しいことは、「1920年代の東京 • 浅草花屋敷」と私が浅草の隣の歓楽街について書いた吉原の記事にある。
このスライドは、ニューヨーク州教育局が、生徒に日本のことを教えるために作成した、一連の日本のスライドの中の一枚。
脚注
1 浅草・酉の市(とりのいち)。酉の市。2008年10月23日検索。
2 江戸東京博物館。浅草今昔展。2008年10月23日検索。
3 浅草仲見世について更に詳しいことは、仲見世のサイトを見られたい。
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引用文献
ドゥイツ・キエルト()1934年代の東京・浅草仲見世、オールド・フォト・ジャパン。2025年02月08日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/626/asakusa-nakamise-jp)
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写真番号:80121-0011
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