飽の浦から長崎港と恵美須神社の見事な眺めを撮った写真。左に見える山は金毘羅山と立山。
恵美須神社は出島から湾を隔てて真向かいにあった。出島は扇の形をした人工島で、オランダ商人が1641年から1853年まで自分達の商館を構えていた場所。この神社は、1808年にイギリス軍艦が入港して長崎港を脅かした所謂フェートン号事件の際に、長崎奉行松平図書守の本陣となったことで、日本史上にいささか名を残している。
当時日本が関係を持っていたのは中国とオランダのみで、他の諸国の船は現在鎖国として知られる船舶規制政策で、日本の港に入ることは厳禁されていた。しかし、この年の10月14日にイギリスのフリゲート艦フェートン号がオランダ国旗を掲げて長崎港に入り、オランダの商船を拿捕した。当時のオランダはナポレオンによるフランスの支配下にあり、オランダの船舶はイギリスから見れば敵国船だった。
出島の日本とオランダの商人達は、共にオランダ国旗に欺かれてフェートン号を歓迎するために舟を出したが、彼等が接近するや否やフェートン号はオランダ代表を捕らえて、日本側に対して水、食料と燃料の補給を要求した。イギリス側の要求が容れられなければ、長崎港を砲撃するというのがその言い分だった。
日本側にとって不幸なことに、当時港の防禦は不充分で、その上軍用の通信もこのような海上からの非常事態に対する準備はなかった。そこで、松平はフェートン号の要求を容れざるを得なかった。
この軍艦が10月17日に長崎を離れた時でも、日本側の援軍は未だ到着せず、奉行は国の防衛の崩れが明らかになった責任を取って、切腹したのである。
フェートン号事件の結果として、幕府は海岸の防禦を強化し、日本に来る外国人に対する禁令を厳しくし、英語とロシア語の学習を進め始めた。この事件から僅かに6年後、日本で初めての英和辞書が出版されている。
この写真に写っている神社の庭を見ると、使い番や武士達が慌しく行き交い、社殿の中ではこの危機にどう対応するかを人々が協議していたのが想像される。彼等は港を全て見晴らすことができたが、38門の恐るべき大砲を備えた近代的な軍艦に対して防衛する手段はなかった。日本には944トンのフェートン号の力と規模に多少とも匹敵する船さえなく、その上長崎を防衛する軍隊は殆どおらず、援軍が到着するには何日も必要だった。彼等が感じた孤立無援、混乱と憤懣の気持ちが大きかったことは容易に想像できる。
眺めが美しく港がはっきり見えるためか、この歴史的な意味合いのためか(或いは恐らくその両方)、この場所から撮られた写真は多い。しかしこの写真のように数多くの漁船が写っている写真はない。この辺りには漁師が多く住んでいたことがはっきりわかる。
恵美須神社は現存しているが、この写真にある社殿はずっと前になくなっている。見事な眺めも同様で、三菱の工場群があるために完全に見えなくなっている。
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引用文献
ドゥイツ・キエルト()1890年代の長崎・恵美須神社と港、オールド・フォト・ジャパン。2025年05月21日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/581/ebisujinja-minato)
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写真番号:70208-0011
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