落ち着いた吉田町通の商店街を通り過ぎる人々。吉田町通はこの写真では落ち着いて見えるが、買い物に行くには最適の場所で、人気があった。
右側の薬屋には、婦人用生薬製剤「中将湯」、南京虫退治や工業用薬品の看板が見える。一度覘いてみれば面白そうだ。

ペリー提督が来航した時の横浜村は、静かな村で東海道とはつながっていなかった。当時の東海道は、大名や供の家臣達、その他の旅人で賑やかだった。徳川幕府は外国人と武士との衝突を怖れていたので、隔絶している横浜村は外国人を住まわせるのに理想的な場所と見た。
程なく横浜から最も近い東海道の宿である神奈川宿との間に、道路ができた。この道路が吉田川を横切る場所に橋ができて、吉田橋という大変相応しい名前が付けられた。
吉田橋には関所があり、関門と呼ばれたので、関門の内側は関内、外側は関外と呼ばれた。外国人は関内に入り、日本人は殆ど関外に住んだ。



1860年、幕府は関内を完全に取り囲む運河を作ったが、関内の外国人の多くは、長崎の出島のことを思い起こして居心地が悪かった。オランダ商人は殆ど2世紀の間、この長崎湾の小島に住んで、ここから出ることは許されなかった。
しかしこの類似は表面的なもので、パスポートを持っておれば、外国人は関内から一定の距離の範囲内で実際に外出できた。そこで、吉田橋は関内と関外との間で、主な通過点となった。年が経つにつれて、このような制約が緩められ、吉田橋に近い通りは商店、芝居小屋、料理屋やその他の商売の場所として魅力のある場所となった。それがまた人々を惹きつけ、中でも人気が高かったのは、外国人に「劇場通り」として知られた伊勢佐木町通と吉田町通。
伊勢佐木町同様、吉田町通も何度となく天災や戦争で破壊され、その都度常に再建された。この通りは今でもある。しかし、この人を惹きつける薬屋だけでなく、混沌とした魅力や雰囲気はない。

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引用文献
ドゥイツ・キエルト()1910年代の横浜・吉田町通、オールド・フォト・ジャパン。2025年02月08日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/355/yoshidamachi-dori-jp)
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写真番号:70122-0012
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