横浜の根岸の農村。この美しい農村風景は、外国人居留地に近かった。
左手に見える山を越えると外国人達が贅沢な家を構えていた山手の断崖がある。外国人達は根岸をミシシッピ湾と名付けていたが、これはペリー提督の旗艦の名前から付けられたらしい。彼等はこの場所を「世界で最も美しい風景」とも言っており、ここに来ては海と遥かかなたの本牧の崖の見事な眺めを楽しんだ。崖の下では、地元の女や子供達が引き潮の時に貝を採っていた。
根岸は美しい場所だが、暮らしは厳しかった。とりわけ夏は暑さが永く続き、伝染病が蔓延し、台風が来れば農夫や漁師達の収入や命が失われることもあった。有難いことに根岸の人々には、神道の神主がいて不幸や悪霊から守ってくれた。1556年に始まった魅惑的な清めの儀式であるお馬流しはそのための祭である。

お馬流しで用いられる馬は6頭の手作りの藁の馬で、頭は馬のようだが身体は亀に似ていた。根岸の六つの村が夫々この馬を1頭ずつ夏になると作った。これらの馬を小舟に横たえて乗せ引き潮で流すが、病気、悪霊、その他全ての不幸を持ち去ると信じられていた。だから、もし流し戻されるようなことになれば、恐るべき前兆と考えられた。1923年の夏、日本の歴史上最も被害の大きかった関東大震災が起きて、横浜とその近くの東京が壊滅する僅か数週間前に、それがあったようだ。この時は6頭の馬が全て流し戻された。
お馬流しの起源は、鎌倉時代(1192~1333)にまで遡ると信じられている。当時武士達は自分達の馬を、現在の港南区にあった和田山の牧場で飼育していた。馬が死ぬと海に流したと説明されている1。土地の言い伝えによると、その辺りは悪霊に祟られていて、多くの馬にそれが乗り移った。この祭は、その辺りを清めるために始まった。昔の日本人は、最も厳粛な儀式の場合でも楽しみ事を作り出すのが常で、ある時この祭を皆が興奮する舟漕ぎ競争で盛り上げた。お馬流しは簡略化されているが、今も行なわれている。

1864年に、山手から根岸沿いに道路が作られた。表向きは、外国人が旅行する際に安全に通行できるようにするため。1862年9月14日のことだが、東海道沿いの生麦村の近くでイギリス人が武士の襲撃に遭ったことがある。今では生麦事件として知られている事件である。一人が死に、この事件は全面的な外交危機にまで発展しそうになり、その結果遂には1862年イギリス軍艦による鹿児島砲撃が起こった。
この道路によって、この辺りは外国人が喜んで逃避するオアシスになった。彼等はここでピクニックを楽しんだり、根岸の競馬場で開かれた競馬を観戦した。この美しい風景は、官僚と実業家がこの美しい干潟を埋め立てて巨大工業団地を造成した1960年代まで何とか残っていた。
嘗ては子供達が母親と一緒に貝を探した場所は、今巨大な高速道路になり、漁師達が網を引いた場所は現代社会を動かす燃料が一杯の貯蔵タンクに変わっている。工場、製油所、大煙突がその他の場所を占領している。横浜から金澤まで、海岸全域とそこにあった自然に棲息環境は完全に破壊されてしまった。数百万年かかってできた、語りつくせない美しさが欲望の祭壇の生贄になってしまった。

これは日本の太平洋沿岸の殆どで、数え切れないほど繰り返され、現在も続いている場面である。最近では、長崎県諫早湾の干潟の破壊が悲劇的な結果を生んでいる。2
普通の日本人にも、これらの立案者達と同様に責任がある。多くの人々の考え方は視野が狭く、他の町や県で起きていることは、遥か遠くのことで自分達には影響がないと今でも考えている。しかしある場所で起こったことは、全国に影響を及ぼす。それが前例になって、何度も同じことが繰り返し起こる。最早遥か遠くの出来事ではなく、全ての人々に影響するのである。このような規模で自然の棲息環境を破壊することは、遂には人類を破壊することになると気づいている人々は今増えている。しかし未だ間に合ううちにこれに気づく人の数は充分だろうか?行動を起こす人の数は充分だろうか?
ワシントン・ポスト紙の元上級編集者であるクニオ・フランシス・タナベは、1940年代から1950年代に本牧周辺で大きくなった。1999年に短期間この地を訪ね、この地域で過ごした少年時代の思い出をジャパン・タイムスに寄稿している。3
「この近くは漁師達の縄張りで、褌と鉢巻姿でミツマタヤリウオなどの幻想的な生き物を巧みに描いた刺青を見せびらかして歩き回っていた。彼等が話すのは、この湾と湘南海岸の漁師の間で共通の固有の方言だった。彼等の言葉は皮肉と誇張が一杯だった。例えば、何か小さいものを見ると、「でっかかねー」(何と大きな)と言い、大きなものを見るとその反対で、「ちっちゃかねー」と言った。 漁師達は元旦には子供達にお金と飴をたくさん与えた。お馬流しの祭をやるのも、盆踊りをやるのも彼らで、地元の神社への奉納金も集めた。大漁を知らせる時は法螺貝を吹き、嵐や赤潮が来るのを予想して恐ろしい台風が来ると避難の手配をした。魚を銛で突き、海苔を採り、蟹を罠で捕まえる方法を教えてくれた。海亀が彼等の網にかかると、酒を飲ませて海の深いところに戻して放した。その間ずっと大漁を祈りながら。 「あさり」、「あおやぎ」、「はまぐり」などの貝類は幾らでもあった。タコノマクラやナマコは、潮が引くとこにでも現れた。鰈(巧みにカモフラージュしているので、大体は偶然だが)に躓いて手掴みにすることを学んだ。寒い月でさえ、舟を出してヤスで漁をしたり釣り糸を投げ込んだりした。気候が暖かくなると、漁師とその妻達は網を修理する。彼らには私の祖母が波の音と調和する異国情緒の音楽を弾く琴の音が聞こえたかも知れない。」
脚注
1 タイムスリップよこはま。お馬流し。2008年7月27日検索。
2 朝日新聞2008年6月28日。社説「諫早湾干拓―水門開放へすぐに動け」。2008年7月27日検索。
3 Tanabe, Kuni Francis (1999). Memories of old Honmoku. The Japan Times. 2008年7月27日検索。
4 お馬流しを見るには、本牧神社(電話:045-621-7611)に開催日(8月初め)を確認すること。
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引用文献
ドゥイツ・キエルト()1880年代の横浜・根岸の農村、オールド・フォト・ジャパン。2025年05月21日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/543/negishi-no-nozon)
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