70820-0001 - Panoramic View on Nagasaki, 1890s

1890年代の長崎
町と湾の眺め

撮影者 江南信國
発行元 江南信國
メディア 鶏卵紙
時代 明治
場所 長崎
写真番号 70820-0001
注文 デジタルデータ
著者
翻訳者

風頭山から見た長崎南部の全景。街は昔からの木造建築が建て込んでおり、港は船で賑わっている。

出島が写真中央の右側に見える。それを本土と隔てている水路は、流れを付け替えた中島川のように見える。出島の向こうの埠頭にある建物は、税関である。外人居留地がその左側にある。

長崎は、1542年に一隻のポルトガル船が現在の鹿児島県に着いた時は小さな漁村に過ぎなかった。これが変わったのは、1571年にポルトガル人達が領主大村純忠(1533−1587)の援助で貿易港をここに作った時。この村は直ぐに重要な港となり、他のアジア諸国やヨーロッパからの商品がこの港を通って輸入された。パンや煙草などの異国の物産が初めて日本に入ったのも長崎を通じてのこと。その一つがポルトガルのスポンジケーキで、長崎文化の大きな一部分となり、今はカステラという名で観光客に人気のある土産物である。

人工島である出島は、1634年にポルトガル商人が滞在するために作られた。しかし1637年に起こった、キリスト教徒中心の島原の乱の後、1638年ポルトガル商人は日本から追放された。1641年には、平戸島にいたオランダ人が出島に移った。彼等は定期的に将軍表敬のため江戸を訪れる以外は、本土に立ち入ることは許されなかった。長崎で貿易に従事することを認められた外国人は、オランダ人と中国人だけだった。

その後二世紀に亘って、日本は公式には外部の世界との接触に対しては閉ざされていた。この時代徳川幕府は琉球(現在の沖縄)、朝鮮やロシアとも行き来して貿易を行なってはいたが、長崎は世界に向けた重要な窓で、この町は異国的で、珍しいものに満ちたところと見られた。

1853年アメリカのマシュー・ペリー提督によって日本が再び外交関係と外国貿易のために開国することを余儀なくされると、その僅か6年後の1859年には長崎は自由港となった。

外国人が直ぐにこの町に入り始め、町の西洋化に大きな役割を演じ始めた。大規模な外国人居留地が作られたのは、梅ヶ崎、大浦、下り松、東山手と南山手で、外交官、貿易商人、山師、それに幾つもの教会や学校を建てた宣教師達が住んだ。

当時中国の主な貿易港はヨーロッパ列強の支配下にあり、中国と近かった長崎は当初西洋の技術導入に大きな役割を演じた。造船、石炭の採炭、鉄道や新聞出版に至るまで各種の技術がこの町を通じて日本に最初に導入されている。特に影響の大きな役割を果たしたのは、スコットランド出身の商人トーマス・ブレーク・グラバーで、反幕府派の倒幕運動を支援した。

この町で発展した独特の文化に触発されたピエール・ロティは、1888年に小説「お菊さん」を書いたが、これに触発されたジャコモ・プッチーニの歌劇「蝶々夫人」と共に、欧米に日本ブームを齎すことになった。

1899年には、日本の幾つかの都市に外国人居留地が生まれる原因となった不平等条約が撤廃され、長崎の外国人居留地も公式に閉鎖された。しかし外国人は引続き長崎に住み、この町に更なる繁栄を齎した。この繁栄は、日清戦争(1894~1895)、米西戦争(1898)、義和団の乱(1899~1901)などによって更に大きくなった。

しかし、この繁栄は日露戦争(1904~1905)の際に長崎が軍の管理下に置かれたことで突然の終わりを迎えた。船の寄港がなくなり、貿易は基本的に壊滅した。外国人は次々に横浜や神戸に移った。長崎が持っていた最も重要な国際港という地位は、既に横浜に奪われ、過去の栄光を取り戻すことはできなかった。

1941年に始まった第二次世界大戦は、嘗て大変栄えた外国人社会に対する最後の一撃となり、殆ど全ての西洋人がこの町を去って、二度と戻ってこなかった。

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引用文献

ドゥイツ・キエルト()1890年代の長崎・町と湾の眺め、オールド・フォト・ジャパン。2022年09月25日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/495/machi-wan-nagame)

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写真番号:70820-0001

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