京都嵐山の渡月橋で男が釣り糸を垂れており、着物姿の女性の一群が橋を渡っている。
橋の遥か彼方に法輪寺が見える。この橋にこのような詩的な名前が付いたのは、亀山天皇(1249~1306)が、この橋は月まで延びているようだと言ったから。
836年にここに初めてできた橋は朱色だったようだ。当時は今の場所より200メートルほど上流にあって、法輪寺への通行の便のために架けられたので、法輪寺橋と呼ばれた。1
その後この橋は度々洪水や戦火で損害を受けたり、破壊されたりしたが、その都度再建された。この写真の橋は、1892年(明治25年)に洪水で壊れた。同じ場所に1934年(昭和9年)に完成したのはコンクリート製で、今でもそのままである。
この橋の辺りは、春は桜、秋は紅葉で有名である。桜の木は、橋に詩的な名前をつけた天皇が、吉野から移植させたもの。この天皇は一時期、渡月橋からほんの少し歩いた所にある天龍寺に居を構えていた。2
1948年(昭和23年)頃まで数百年に亘ってこの川は、遠くは丹波からの人や、米、大麦小麦、炭、材木等の物資の輸送に利用されていた。
この川は京都で鴨川と、大阪では淀川と繋がっていたので、高速道路や鉄道ができるずっと以前から速い運送の手段として限りない可能性があった。大阪城や幾つかの寺院の建設資材さえ、この川を下って運ばれた。狭かった川幅が1606年頃に広げられると、京都の重要な商業路となった。序でながら、この橋で保津川は桂川に名前を変える。
脚注
1 日本古写真超高精細画像データベース、嵐山渡月橋(1)。2008年3月31日検索。
2 日本帝国鉄道庁(1914年)。 An Official Guide to Eastern Asia Vol. II: South Western Japan. Imperial Japanese Government Railways.
3 この橋を架けたのは、弘法大師の弟子の一人道昭(629~700)だと主張する文献が少なくないが、道昭が生きていたのは二世紀も前のことで、同名異人でもない限りこれには疑問が残る。
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引用文献
ドゥイツ・キエルト()1880年代の嵐山・渡月橋、オールド・フォト・ジャパン。2023年02月07日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/193/togetsukyo)
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