長崎港と長崎の外国人居留地の南端が写っている。大浦にある居留地の主な部分は、右側の丘の向こうにある。
その丘の上に一本だけ立っている松の木は、有力なスコットランド商人のトーマス・ブレーク・グラバーの家のある場所を示している。この家は1863年(文久3年)に完成し、日本に現存する西洋建築の中では最も古い。その左側の辺りは小曾根である。前面の日本家屋は浪の平にあるもの。前面右側の田圃には、その後1887年(明治20年)に鎮鼎尋常小学校が建てられた。洋風家屋が既に幾つか見えるが、間もなく増えて1890年代初頭になると、ここに写っている田圃は姿を消してしまった。1

1859年(安政6年)7月1日に、長崎は横浜や箱館と共に外国貿易港として開港した。長崎では、外国代表と地元の役所が大浦川の河口と東山手と南山手の丘の傍が、新しい外国人居留地として最適だと決めた。大浦が商業地だったのに対し、丘の傍は住宅地となった。
この辺りの造成工事が始まったのは1860年(万延元年)のことで、完成したのは1862年(文久2年)だった。4月には住民がやって来た。19世紀の終わりまでには、この居留地は優雅な洋風建築で有名になったが、その中には領事館、銀行、会社、倉庫、ホテル、店舗や、港の賑いの素晴しい眺めが味わえる植民地賑わう風の別荘などがあった。
南山手は、イギリス人が多く住んだので「イギリス丘」と呼ばれ、長崎の外国人居留地の6つの地域の一つだった。この他の地域は、出島、梅香崎、大浦、大浦下り松と東山手。

脚注
1 日本古写真超高精細画像データベース、長崎港と浪ノ平南山手。2008年10月7日検索。
2 Nagasaki Foreign Settlement Research Group,
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引用文献
ドゥイツ・キエルト()1870年代の長崎・南山手、オールド・フォト・ジャパン。2025年04月29日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/599/minamiyamate-jp)
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写真番号:70219-0014
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