弁天橋と横浜駅の風景。線路は建物の後ろにあって見えないが、何両かの貨物車が右側の操車場に見える。
背景に見えるのは伊勢山皇大神宮と野毛不動のある野毛山。当時野毛山は裕福な商人の住宅地として人気があった。駅は東京へ向う鉄道の出発点。

キーリングの「Guide to Japan」はこの写真が撮られて間もなく、1890年に出版された。未だ比較的新しかった首都へ50分強かかった汽車旅で、旅客が出会う6つの駅の周辺について興味深く描いている。今日、同じ路線を通って、現在の様子とこの外国人向け案内書に書かれていることを比べて見るのは、大変興味深い。1
列車は両方の駅から発車し、日中は1時間50分の間隔で運行している。但し例外が2回ある。 列車が横浜駅を出ると間もなく、野毛の見事は眺めが目に入る。この丘の上には少々有名な大きな神道の社がある。列車が走るのは、嘗ては全部ではないが、少なくとも部分的に海だったところで、この付近に豊富にある粘土を使った埋め立て地である。 神奈川は、湾の岸に沿って1マイル以上に広がる長くて狭い町で、大きな通りは一本しかない。これは東海道の一部である。ここは元来通商条約で合意した貿易港として名を知られた。1858年には既に外国人が住んでいたが、その後横浜に住むことを求められた。領事達は、これに同意するまで大いに反論し、不満の意を表したが、それは商人達にとって日本の主要街道の一つから離れて、当時は小さな漁村だった場所に隔離されることによる損失が大きいと考えたからだった。この場所は運河で囲まれていて、収容所のような感じだったので、もう一つの出島になるのではないかと思われた。しかし商人達は、海上交通の便が好くなるのでその利点が不便さを遥かに上回ると考えて、場所を変わることには大いに乗り気だった。 神奈川の丘の後ろにある仏教の寺、豊顕寺は訪ねるに値する。 鶴見は、以前数多くのこうのとりがいたと言われ、それがこの地名の謂れである。この村は線路の右側にあり、両側には多くの田があって、その季節になると農夫が忙しく働いているのが見られる。 生麦の近くに、リチャードソンが殺された場所に近いので、横浜から外国人がよく遠出してやってくる茶店「黒い目のスーザン」がある。 次の駅は川崎で、六郷川(多摩川)に近い小さな町。この川にかかる鉄橋は外国人が架けたもので、完成したのは8年少し前。別に日本人が作った木造の、馬、車や歩行者が使う橋もある。鉄橋の手前右側に、豪華な装飾の寺院が見える。毎月21日になると、何百人もの参詣人が遠近からやって来て、日本の仮名を考え出した弘法大師を拝む。この町で日曜日や休日を過ごす外国人は多い。川崎に近い蒲田の梅屋敷は4月の中頃には梅の花を見に行くに値する。 列車はこの鉄橋をかなりの速さで渡り、通常新橋からの下り列車とすれ違う。 大森には現在それ程多くの木はないが、昔は地名のように数多くあったようだ。 東京大学校の前教授だったモースが、この場所で極めて貴重で興味深く、珍しいものを発見して、科学を豊かにした。彼が発見したのは大規模な「貝塚」で、ニューイングランド、フロリダ、デンマークなど世界の他の場所で見つかったものと似ていると考えた。これらの貝塚は、東京湾の海岸から約半マイル離れたところにあって、鉄道で分断された。特筆すべきことに、色々な形の大量の土器類、それに「殆ど数限りない種類の装飾品」、鹿の角で作った道具類、人、猿、鹿、猪、狼や犬、それに恐らく大きな猿の骨などが他の遺物と共に見つかった。モースによると、石器類は少なく鏃、槍の穂先や火打石などは全く見られない。また、日本には記録も伝統もない人食の痕跡がある。これについてもっと知りたい人は、“Memoirs of the Science Department, University of Tokio, Japan, Vol. I, Part I, Shell Mounds of Omori.”を見ると好い。 池上は線路の左側にあり、駅から約1マイル半の所に池上の村があって、ここには600年前から聖人になっている日蓮を拝むために建てられた有名な寺がある。 日蓮の遺灰は、寺の域内にある、彼が亡くなった家のあった場所に祭られており、灰色の砂岩で作られた蓮の葉の石の基礎の上に建てられた大きな円形の塔に納められている。塔は鮮やかな赤色の漆塗りで、四角な天蓋が乗せてある。直径は20フィートほどある。中には机があり、これを大きな8匹の亀が支えていて、机は蓮の花の形をしている。遺灰と歯を納めたガラスの壷もある。地上の納骨所は広く、数多くの手の込んだ墓石がある。中でも目につくのは、日蓮を偲んで建てられた墓石で、灰色の砂岩で作った円筒形の筒の上に二つの蓮の花の基盤の上にある地球を乗せたピラミッドである。 これらの納骨所は見事な場所にあり、極めて広く、数多くの寺院や神社がある。周囲には堂々とした古木の茂みが広がっていて、そこへ通じる道も、通り抜ける道も絵のように美しい。耕された田園を見下ろす丘の頂にあるが、これらの土地の多くは日蓮の信者の一人だったある大名が寄進したので、この寺の僧侶達の所有である。周りの風景は魅力的で、丘の麓にある小さな村は、どこから見ても質素で快適だ。一番好い旅館は丹波屋である。 中でも最大のものは、日蓮を祭る寺院で、日蓮の死を悼んで1月13日の行なわれる毎年の儀式には、大群衆が集まる有名な参詣の場所である。 品川は、無数の漁師が住んでいて、毎日大量の魚を東京に運んでいる。此処からは湾が眺められるが、遠くには砲台が見える。作ったのは日本人だが、指導したのはフランス人で、東京を防衛するためのものだったが、今は撤去されている。ここには牡蠣やその他の貝類が豊富にいるので、それらを採りに遠出する人々がある。帝国海軍の艦船が停泊しているのが見える。 11月の終わりは、この町の紅葉が最高に美しく、是非訪れるべきである。品川を出ると、列車は大きく曲がって幾つかの村を通過する。これらの村々は東京と極めてつながっているので、区別できない。その中で最後の村は三田で、心地よい木々の茂みに囲まれた多くの寺が左手に見える。列車が停まるとそこは首都の新橋である。
この説明には若干の過ちがある。例えば、豊顕寺を祭った仏教の寺と説明しているが、これはむろん豊顕寺というのが寺の名前である。鶴見も英語の原文では、「こうのとりを見る」という意味だと書いており、従って説明には鶴ではなくこうのとりが出て来る。それにも拘らず、これが明治の中頃に外国人が体験した、横浜と東京間の鉄道旅行の素晴しい記録であることには変わりない。
この駅は関東大震災で破壊され、現在では残っている水路だけがこの写真の状況を思い起こさせる。更に詳しいことは、「1900年代の横浜 • 横浜駅」を見られたい。

脚注
1 Farsari, A. (1890). Keeling’s Guide to Japan. Kelly & Walsh Limited: 50-53.
公開:
編集:
引用文献
ドゥイツ・キエルト()1873年の横浜・弁天橋と横浜駅、オールド・フォト・ジャパン。2025年02月08日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/325/bentenbashi-yokohama-eki)
ライセンス可能
この写真はライセンスも可能です。ストックフォト(写真素材)を専門とするエージェンシーMeijiShowa(明治昭和)では、 明治、大正、昭和初期にかけてのアーカイブ写真・イラスト・ならびに古地図を、 エディトリアル・広告・パッケージデザインなどのライセンスとして販売しております。
写真番号:80115-0011
この記事のコメントはまだありません。