東京の流行の中心、銀座の服部時計店ビルの前を通る2台の市電。青々と茂る木の下には荷車が見える。
建物の高さが3階以下の、この昔風の並木通りは、現在我々が知っている銀座通とは全く違う。多少とも似ているのは、時計塔があることで、今は和光の上にある。
服部時計店ビルは、銀座の目印の一つだった。1881年(明治14年)に服部金太郎(1860~1934)が開店した時計宝石店。1892年(明治25年)には、時計の製造を創め、1913年(大正2年)には日本で初めて腕時計の製造を創めた。現在の社名はセイコーで、世界で最も知られた腕時計メーカーの一つ。1
この象徴的な服部時計店ビルは、不幸なことに1923年(大正12年)の関東大震災に耐えられなかった。建替えの設計を任されたのは、建築家の渡辺仁(1887~1973)で、1932年(昭和7年)に、大きくカーブする基礎の上に重厚な御影石のネオルネサンス様式の建物を完成させた。この建物は現在和光本館である。

このビルの外壁には、殆どの人が見落しているが、興味深いレリーフがある。服部の頭文字Hと商業の神ヘルメスの象徴である杖と蛇、精密機械を象徴する秤、それに貴金属を表す銀のカップである。
このビルの前身のことは、忘れていない。服部時計店ビルには手動で時を知らせる鐘があったが、和光のビルには、ロンドンのウェストミンスター寺院のチャイムを鳴らす時計がある。2
渡辺仁は、関東に多くの足跡を残している。多くの建築家にとって、目印になるようなビルを一つでも建てることができれば幸せなことだが、彼の場合は数多くのビルを実際に設計している。
和光以外にも、最も有名なのは疑いもなくホテル・ニューグランド(1927年、横浜)、早稲田小学校(1928年、東京)、日本劇場(1933~1981、東京)、東京国立博物館本館(1938年、東京)、それに第一生命館(1938年、東京)。
第一生命館は、ダグラス・マッカーサー元帥(1880~1964)が第二次大戦後連合軍総司令部として利用することを決めたので、世界の歴史に登場しさえした。アメリカ軍が東京で接収した600近い建物の一つ。
驚くべきことに、銀座の和光は第二次大戦中東京が受けた大規模な空襲を生き延びた。そこでアメリカ軍は日本占領期間中(1945~1952)は、ここをPX(アメリカ軍の基地内の売店)として利用していた。PXは他にも東京に幾つかあった。3
占領が終わると、和光のビルは以前の栄光を取り戻し、今も多くの人が日本でも最高級の百貨店と考えている。
もう一つの銀座の眺めは、「1890年代 銀座の新橋」を見て欲しい。

脚注
1 セイコー。「社史」。2008年4月15日検索。
2 資生堂。「和光」。2008年4月15日検索。
3 銀座コンシェルジュ:銀座学入門。 「戦後の復興から高度経済成長へ」。2021年8月29日検索。
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引用文献
ドゥイツ・キエルト()1910年代の東京・銀座の服部時計店ビル、オールド・フォト・ジャパン。2025年02月08日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/236/ginza-hattori-jp)
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