1882年から1899年頃(明治20年代)の東京、新橋と銀座の風景。
汐留川に架かっている木造の橋は、その後1899年(明治32年)4月に鉄製の橋に建て替えられた。
市電が既に写っているが、未だ鉄道馬車である。東京で鉄道馬車が開業したのは1882年(明治15年)6月25日。その後1903年(明治36年)8月22日には電車となった。翌年には鉄道馬車は姿を消した。
街路に停まっているのは、鉄道馬車以外に人力車、馬車もある。鉄道馬車の運行が始まったのは1872年(明治5年)で、新橋と浅草間で運行していた。
右側の角にある建物には広告看板が見える。窓の隣の看板は恵比寿ビールの広告で、「宮内省御用 日本麦酒醸造会社」の文字が読める。日本最初のビアホールである「恵比寿ビアホール」がこの場所で開店したのは1899年(明治32年)8月4日のことで、大繁盛し、程なく銀座には多くのビアホールが開業した。ビリヤードの広告看板も見える。ビリヤードをしている日本の女性の珍しい1929年のビデオクリップを見つけた:
左前方に見える建物は、松川長右衛門の「千歳」という料理屋だと言われる。1899年(明治32年)には百貨店の前身である帝国博品館勧工場(現在の博品館)がここに建てられた。
銀座という地名は、1612年に銀貨の鋳造場がここに建てられたことに由来する。この辺りは両替商が多く店を開いていたので新両替町と呼ばれていたが、間もなく銀貨の鋳造場にちなんで広く銀座と呼ばれるようになり、1869年(明治2年)にはこれが正式な地名となった。
新たに正式に銀座と呼ばれることになって間もなく、銀座は1872年(明治5年)の大火で木造の家屋や店舗が殆ど焼失した。この大火後東京府(現在の東京都)は、より永続性のある建物を建てることを決めて、アイルランド生まれの建築家トーマス・J・ウオータースに委嘱して、西洋風建築を設計させた。
ウオータースは数多くの2階建て、3階建てジョージアン様式の煉瓦建築を建て、1874年(明治7年)には日本最初のガス街灯も設置された。その後日本で最初に電燈による街灯が設置されたのも銀座である。
銀座煉瓦街が1877年(明治10年)に完成すると、新橋と京橋の間の一帯は景観を一新して、東京で流行の最先端を行く商店街となった。
ビジネス街の日本橋と京橋に近いという地の利に恵まれ、間もなく新聞社や印刷工場が進出して、日本の情報の中心となった。色々な新しいアイディアがここで生まれ、或いはここから広がった。
化粧品大手の資生堂は1872年(明治6年)に銀座で薬局として開業。有名な時計メーカーの精工舎は創業者の服部金太郎が1881年(明治14年)に銀座通りに時計店を開業したのが始まり。既に述べたように、日本最初のビアホール「恵比寿」も1899年(明治32年)に開店し、1911年(明治42年)には新しい流行の最先端を行くカフェ「プランタン」と1902年(明治35年)には「パウリスタ」がオープン。世界初の養殖真珠専門店は、御木本幸吉がここで1906年(明治39年)に開業。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では銀座も大きな打撃を受け、またもや完全に破壊された。これによって新しい地域整備計画が実施に移され、銀座はそれまでより人気の高い、ファッショナブルな場所となった。
1945年(昭和20年)にはアメリカ軍の焼夷弾爆撃で部分的に破壊されたが、その灰燼の中から以前にも増して力強く立ち直った。
銀座は現在日本で最も地価が高い。2007年(平成19年)8月2日の毎日新聞によると、文房具店鳩居堂前の地価評価額は一平方メートル当たり2,496万円である。葉書サイズの土地が36万9,000円という目を剥くような計算になる。銀座の地価は22年継続で日本一高い。
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引用文献
ドゥイツ・キエルト()1890年代の東京・銀座と新橋、オールド・フォト・ジャパン。2024年09月15日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/66/shinbashi-bridge-ginza-jp)
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