160307-0027 - Windmill at Ueno-Hirokoji, Tokyo

1870年代の東京
上野広小路の風車

撮影者 撮影者未詳
発行元 発行元未詳
メディア 鶏卵紙
時代 明治
場所 東京
写真番号 160307-0027
注文 デジタルデータ
著者
翻訳者

2016年6月にこの鶏卵紙写真を購入したとき、それが東京のどこかで撮影されたということ以外分からなかった。上野広小路かもしれないとも思ったが、確信はなかった。重要な写真なのかどうかも。ある程度の調査を要したものの、最終的にこの写真の撮影場所が間違いなく上野広小路であることが確認でき、そして極めて重要な意味をもつ写真だということも明らかになった。

未だ氏名不詳の写真家は上野公園入口に立ち、繁華街のほうを見ていた。明治10年(1877年)に開かれた第1回内国勧業博覧会の出展物でもあった、高さ10メートルに及ぶ勧農局の米国風風車を写真に収めたかったのがはっきりと分かる。風車は地下水を汲み上げた。同じものと思われる風車が、明治14年(1881年)に開催された第2回内国勧業博覧会でも出展された。

上野広小路の風車図面
明治10年(1877年)に開かれた第1回内国勧業博覧会で出展された米国風風車の図面(国立公文書館より許可転載)
明治10(1877年)に上野で開催された第1回内国勧業博覧会の風車
日本画家河鍋暁斎の浮世絵に見られる第1回内国勧業博覧会出展物の米国風風車

この風車は当時の浮世絵版画によく用いられた題材だが、風車が写った写真は極めて稀だ。筆者自身、ここに掲載しているものを除いて1枚しか目にしたことがなく、掲載写真の焼き増しも見つかっていない。つまりこの写真は、今日生きている人のほとんどが目にしたことのない写真ということになる。もし同じ風車が写った別の写真、またはここで紹介している写真の焼き回しをご存知であれば、ぜひ教えていただきたい。

この独特な風景は、オランダ軍医アントニウス・フランシスクス・ボードウィン(1820年〜1885年)の存在なしでは実現しなかっただろう。

上野は徳川幕府にとって神聖な場所だったが、明治1年7月4日(1868年)に起きた上野戦争で大部分が壊滅した。この荒廃地の利用、そしておそらく徳川幕府の遺産の払拭をも望んでいた明治新政府の兵部省は、陸軍病院と医学学校の設立を決定した。

文久2年(1862年)日本の医学教育発展のために日本軍に雇用され勤務したボードウィンは、この計画に断固反対した。上野の見事な自然に感動し、エリア一帯をそのまま公園として維持することを提案したのである1

日本政府はボードウィンの提案に応じ、上野は国内初の公園となった。感謝のしるしとして建てられた「ボードワン博士像」が今も上野公園にある。上野公園は明治9年(1876年)まで正式に開場されなかったものの、明治3年(1870年)にはボードウィンの送別会がこの場所で開かれた。

アントニウス・フランシスクス・ボードウィン
オランダ軍医アントニウス・フランシスクス・ボードウィン(1820年~1885年)

近代化の波は日本に押し寄せ、上野公園は徐々に重要な文化の拠点へと発展した。この発展の始まりは、特に上野公園が明治10年(1877年)の第1回内国勧業博覧会会場に選ばれたことにある。博覧会は8月21日から11月30日まで開催され、1万6千以上の出展者が参加し2、45万4千人もの観客を魅了した3

明治6年(1873年)にウィーンで開催された万国博覧会 や、明治9年(1876年)のフィラデルフィア万国博覧会といった欧米の博覧会に強く影響を受けた内国勧業博覧会は、技術的知識の普及や産業開発の促進を目指した。旋盤や織機、そしてここで紹介している風車といった革新的技術が紹介された。

この展覧会は、後に上野公園で開催された第2回(1881年)及び第3回内国勧業博覧会(1890年)をはじめとする国内の博覧会の手本となった。これら展覧会が日本近代化の重要な役割を果たしたと言っても過言ではない。

明治40年(1907年)度東京勧業博覧会
明治40年(1907年)度東京勧業博覧会の台湾館
1890年代、上野不忍池に咲く蓮の花
1890年代、上野不忍池に咲く蓮の花

上野公園は文化施設を引きつける存在となった。

第1回内国勧業博覧会が開催された同年、国立科学博物館(元教育博物館)が上野公園に設立された。明治12年(1879年)には、日本学士院が設立。

明治15年(1882年)に東京国立博物館が上野公園に移転した。同年、上野動物園も開園した。

後に帝国図書館(1885年)4、東京美術学校(1889年)、東京音楽学校(1890年)5東京都美術館(1926年)、国立西洋美術館(1959年)、東京文化会館(1961年)、下町風俗資料館(1980年)が設立。

国内で上野公園以上に文化芸術が密集した場所は他に見当たらない。ここで紹介した写真は、類まれな文化集結の萌芽期を示しており、重要な歴史的価値を持つ。

これもみな、上野を公園にしてほしいという、ほとんど忘れられたオランダ軍医の願いの結果である。もっとも、公園の敷地内に立つ建物すべてを目にしたら、本人もきっと驚くにちがいないが…。

アントニウス・フランシスクス・ボードウィンの銅像
アントニウス・フランシスクス・ボードウィンの銅像「ボードワン博士像」。上野公園内
1920年の上野公園地図
『上野公園』地図。T・フィリップ・テリー著『テリーの日本帝国案内』より(1920年)

現在の地図を見る

脚注

1 Moeshart, Drs. H.J. (2001). Arts en koopman in Japan 1859-1874. Een selectie uit de fotoalbums van de gebroeders Bauduin. De Bataafse Leeuw, Amsterdam: 8.

2 東京国立博物館. “6.内国勧業博覧会 殖産興業と博物館”(2018年10月6日検索)

3 国立国会図書館. “第1回内国勧業博覧会”(2018年10月6日検索)

4 昭和23年(1948年)に帝国図書館は改称され、国立国会図書館となった。 旧帝国図書館の建物には現在国際子ども図書館が設置されている。

5 東京美術学校と東京音楽学校は昭和24年(1949年)に合併し、東京藝術大学となった。

公開:
編集:

引用文献

ドゥイツ・キエルト() 1870年代の東京・上野広小路の風車、オールド・フォト・ジャパン。2025年04月29日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/841/上野広小路の風車)

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写真番号:160307-0027

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コメント

ジャパンアーカイブスのサイトに第一回内国勧業博覧会の際に展示されていた風車の写真がありました。
https://jaa2100.org/entry/detail/047688.html

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(著者)

@Sora様
ジャパンアーカイブスのサイトの写真について教えてくださり誠にありがとうございます。

偶然ですが、ジャパンアーカイブスのサイトがとても好きですので、この写真はもすでに知っていました。素敵な写真ですよね。

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