京都の歓楽街祇園を、八坂神社の石段から見た風景。通りの両側には数多くの茶屋が並んでいるが、ここでは客が料理、踊り、音曲などを楽しめた。
左側の塔は、1869年(明治2年)にできた弥栄小学校の一部で、見張りと時刻を知らせるのに使われ、二時間おきに見張り塔の太鼓を鳴らした。通りには既に電柱が並んでいる。京都の配電会社である京都電灯会社が操業を始めたのは1889年(明治22年)7月だから、この写真はその後に撮影されている。弥栄小学校の隣、電柱の直ぐ前にはガス灯も見える。京都は急速に近代化している。
祇園の四条通の道幅は元々5.5メートルだったが、1874年(明治7年)には広げられて9メートルになり、1912年(大正元年)には再度拡張して22メートルになった。これで四条通を市電が通れるようになったのである。同時に、この写真では四条通が見えなくなる辺りにある四条大橋も広げられた。これらの変化は徐々に行なわれたが、結果は大変画期的なことだった。今八坂神社の石段に立って眺めると、眼に入るのは全く違った風景である。歩行者と木の建物ではなく、騒がしい自動車とコンクリートの建物が殆どだ。
軍人を乗せた人力車、着物姿で日傘を差した女性達、行商人、西洋風の帽子を被った男達、興味津々の子供達などが写っている。自動車はなく、通りは未だ人々のものだった。
この写真が純粋に伝統的な日本のイメージとなっているのは、人力車、着物姿で日傘を差した女性達、昔からの木造建築が見られるからである。当時京都の祇園と言えば、日本で最も伝統的な都市の一つにある、最も伝統的な場所の一つと考えられていた。しかし、この一見伝統的な写真を撮影した頃の京都は、同時に実際は近代化を熱心に取り入れる近代的な都会と考えられていたのである。
最初に“>映画の映写が行なわれ、最初に公立の学校ができ、最初に水力発電が行なわれたのは京都だった。初めて市街電車が走り、電気の送電網ができた都市の一つでもある。先見の明のある指導者層のお蔭で、この都市は近代社会の舞台に上がり、全国に感化を及ぼすことになった。
この京都の先見性の伝統は、今でも優れた大学、競争力のあるハイテク産業の面に見られる。現在の京都は、京セラ、任天堂、村田、ロームなどの会社の本拠であり、東京の渋谷を除くとIT関連企業が最も多く集まっている。京都は今でも日本の伝統的な工芸や職業を育てているが、京都は過去に執着する人々の住む伝統的な都会だとのイメージは、全く事実に反することは明らかだ。
変化するのは京都の伝統である。実際日本中殆ど何処でもそうかも知れない。エドワード・サイデンステッカー(1921~2007)は、大変尊敬された学者であり翻訳家だが、これを見事に言い表している。
「日本では変化そのものが伝統になっているので、伝統と変化の関係は常に複雑なものだった。」
日本では殆ど常に、変化を積極的に受け入れる素地がある。残念なことは、全ての変化が好いとは限らないことだ。
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引用文献
ドゥイツ・キエルト()1890年代の京都・祇園の茶屋、オールド・フォト・ジャパン。2025年05月21日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/583/gion-no-chaya)
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写真番号:70219-0026
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