70124-0004 - Noge, Yokohama, 1900s

1900年代の横浜
野毛町通

撮影者 撮影者未詳
発行元 発行元未詳
メディア 絵葉書
時代 明治
場所 横浜
写真番号 70124-0004
注文 デジタルデータ
著者
翻訳者

幼い男の子が一人、カメラのレンズを正面から見つめている。荷車を引く男性がいる。店頭から顔を出して、たくさんの商店が並ぶ通りを眺めている店の主人が見える。1900年代初めの或る日のありふれたシーンだが、これを撮影した無名の写真家によって、永く記録に残ることになり、嘗て横浜への入り口の大通りだった野毛町通の様子がわかる。

横浜について素晴しい本を書いたブリット・サビンは、野毛は横浜の魂だと書いている。それには数多くの理由がある。

野毛は、1853年に近くの横浜でペリー提督が大きな楠の木の下で幕府の奉行一行と会見した時は、横浜湾沿いの小さな漁村だった。同じような漁村だった隣の横浜が、1859年6月2日に外国貿易港として開港した時はこの場所にあった。また隣の漁村が世界有数の港に成長するのを見ていただけでなく、横浜を現在の姿にする上でしばしば重要な役割を演じてきた。

同時にサビンは、2004年のジャパン・タイムスに、「多くの人々にとっては、野毛は去るもの日に疎し、だ。」と書いている。1

今は消えたかも知れないが、何時もそうだったわけではない。この場所は元来「久良岐郡戸部村野毛浦」と呼ばれ、徳川幕府の末期に新しい役割が始まった。当時日本で最も交通量が多く、重要な街道だった東海道を横浜とつなぐ街道ができたのは、この時期。

野毛切り通しからの横浜の眺め・歌川貞秀作
野毛切り通しからの横浜の眺め(1860年・歌川貞秀作・Bequest of William S. Lieberman・The Metropolitan Museum of Art

東海道の保土ヶ谷宿近くを起点としたこの街道は、文字通り近くの野毛山を突きぬけ、村を通過して、外国商人や外交官のための居留地だった関内に入る手前で橋を2つ渡った。

近くには神奈川奉行所と警護の武士の屯所があり、漁師達も商売や色々な仕事をやることを覚えた。街道の通行量が増えると、村は益々栄えた。

間もなく、野毛は横浜以外でも知られるようになった。近くの野毛山は、外国船で一杯のエキゾチックな横浜港の眺めが素晴しいと有名になり、1860年代初期には野毛節という歌まで生まれた。

しかし、野毛は未だ大した場所ではなく、伊勢山皇大神宮と野毛不動が近くに建立されて、参拝者の群れが商人達に加わって街道が更に賑やかになり始めたのは、1870年(明治3年)のこと。

僅か2年後には日本最初の鉄道が横浜―東京間に敷かれ、都合の好いことに横浜駅が近くの桜木町にできて、野毛は更に賑やかになった。

明治38年(1905年)の横浜の地図
明治38年(1905年)の横浜の地図:1.新横浜公園、2.吉田橋、3.都橋、4、野毛町通、5、横浜駅(現代の桜木町駅)、6.野毛不動(現代の成田山横浜別院)、7.伊勢山皇大神宮

現在野毛町と呼ばれる、賑やかな商業地は1889年(明治22年)4月1日に正式に横浜市の一部となり、最早小さな村ではなくなった。2

この写真が撮影された時は、野毛町通は賑やかな商店街になり、野毛坂から都橋まで通じていた。この橋を渡ると、通りの名前は吉田町通に変わり、吉田橋を渡って関内に通じていた。

近くの野毛山は、桜が見事で裕福な商人達の住む住宅街になった。ここに最初に住んだ人の中には、絹の取引で富を成した原善三郎(1827~1899)と茂木惣兵衛(1827~1894)がいた。3

70621-0003 - 1890年代の野毛山
1890年代・野毛山の有名な桜を眺めている女性

不幸なことに、野毛山の美しい地所は関東大震災を生き延びることはできなかった。その後再建されることはなく、野毛山公園に変わった。

第二次大戦中、横浜には焼夷弾の雨が降り、野毛は哀れな荒地に変わった。しかし、戦後アメリカの占領軍が近くの伊勢佐木町や、横浜のその他の地域の多くを接収したため、野毛町は避難場所となり、また賑やかになった。闇市が繁盛し、人々を楽しませるために周辺に劇場が雨後の筍のようにできた。

国際劇場はそのような劇場の一つで、ここで横浜の魚屋の10歳の娘が、驚異的な歌声とそれに相応しいパーソナリティで観客を魅了した。本名は加藤和枝だが、世間では美空ひばり(1937~1989)の名で知られるようになり、戦後の日本最大のエンターテイナーだったことは間違いない。4

好い時期は永く続かなかった。横浜が発展するにつれて、人の流れのパターンが変化し、桜木町駅の利用客は他の駅に奪われた。近くの造船所は閉鎖され、1980年代にはこの地域の経済は急激に落ち込んだ。

横浜市は再生計画を作り、日本一高いビル、巨大ショッピングモール、会議場などのある「みなとみらい21」ができた。

野毛町自体も、1986年(昭和61年)に野毛町大道芸まつりを始め、大変有名になって最近では20万人以上の人々を集めている。

真の魂のように、野毛は永遠に生きている。

80316-6431 - 横浜野毛町
平成20年(2008年)・同じ場所

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脚注

1 Sabin Burritt (2004-04-09), Noge, Yokohama: Savor a city’s soul, The Japan Times.

2 横浜の町名(平成8年)。野毛町。横浜市市民局。

3 幕末・明治期日本古写真メタデータベース。「野毛山の桜」。2008年4月12日検索。

4 横浜線沿線街角散歩。野毛町。2008年4月12日検索。

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引用文献

ドゥイツ・キエルト()1900年代の横浜・野毛町通、オールド・フォト・ジャパン。2025年02月08日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/329/nogemachidori-jp)

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写真番号:70124-0004

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コメント

・・が100年か90年ほど違うのでは、と。

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↑野毛町通りですね。

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