福原は神戸の歓楽街としてよく知られているが、その福原にあった西洋風と日本風をミックスした風変わりな建物と、その前に立っている女性達。
福原は旅行案内書にも公式の歴史にも書かれたことはないが、神戸の大きな魅力だった。1874年(明治7年)地元の人々に、神戸で最も人気のある場所を八つ挙げるように尋ねたら、福原が断トツでトップだった。投票したのが男ばかりだったことは明らかだ。
福原の歴史は、神戸が国際港として開港した時期の初めにまで遡る。1868年(明治元年)に神戸が開港すると直ぐに、兵庫と神戸の地元住民達がこの辺りに公娼街を設けるよう陳情した。その後間もなく、現在の神戸駅の場所に大規模な歓楽街ができた。この場所は福原と名付けられたが、この名前は1180年にこの辺りにあった短命の都の名から来ている。
最初のスタートは好くなかった。1870年(明治3年)に神戸大阪間の鉄道工事が始まると、その計画で神戸駅は将に福原遊廓がある場所に建てられることになり、福原は湊川沿いの人の住んでいない荒地に移転させられた。ここは新福原と名付けられたが、「新」は永続きしなかった。
福原は単なる遊女屋の集まりではなかった。無数の料理屋、カフェ、茶屋、芸子置屋、それに有料で部屋を貸す席貸などもあり、大変賑やかな場所になっていた。1
1905年、以前湊川の河川敷だった場所に新しい繁華街の新開地が作られたことは、福原にとって助けになったに違いない。この川は1901年に流れが付け替えられて、嘗て川が流れていたところに数多くの劇場や料理屋ができた。第二次世界大戦の終わる頃まで、ここは神戸の中心的な繁華街で、常に人出でで賑わっていた。
公娼制度は1958年に非合法化されたが、日本の他の歓楽街同様、福原も生き残った。ここは今でもセックスクラブ、娼家やバーで溢れているが、最早この写真に見られるような魅力のある場所ではない。
この写真の撮影者が写真を撮った正確な場所は確定できていないので、このグーグルの地図では現在の福原歓楽街への入り口を示す。
脚注
1 (2003). 湊川新開地ガイドブック. Shinkaichi Art Street.
2 人見佐知子(2007)。「神戸・福原遊廓の成立と〈近代公娼制度〉」。『日本史研究』544, 28-56は参考になる。
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引用文献
ドゥイツ・キエルト()1910年代の神戸・福原の遊廓、オールド・フォト・ジャパン。2025年01月25日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/549/fukuhara-yukaku)
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