女学生の弓道練習風景。
明治時代(1868~1912)には、昔からの弓の扱い方など多くの武道の人気がなくなった。これらの技能を将来の世代に残すために、1896年(明治29年)に京都の弓道師範の一団が結束した。20世紀の初め、東京帝国大学1,の弓道師範で強い影響力を持っていた本田利実(1836~1917)が、戦闘用、儀式用の色々な弓射の形を統一して新たな弓道の形を作り出した。当時これには批判が多かったが、今ではそのお蔭で弓道が生き延びたと見られている2。生き延びただけではなく、この写真に見られるように、女学校などの学校で人気のあるスポーツになった。
人気は高かったものの、アメリカ占領軍によって弓道が一時禁止された後、全日本弓道連盟が発足したのは1949年(昭和24年)になってからのこと。1953年(昭和28年)になって、遂に異なる弓道の流儀の間で試合を行なう際のガイドラインが定められた。3その後多くの国際組織が生まれて、今弓道は世界的に行なわれている。
弓道が他と違うのは、珍しく差別のないスポーツの一つであること。性や年齢に関わらず競争でき、弓道人口は現在全世界で推定50万人と推定される。419世紀末には消滅に瀕していたスポーツにしては悪くない。
この写真は岡山のある女学校の1935年度の学年アルバムから取ったもの。このアルバムには55枚の写真が収められていて、女学生達が勉強し、西洋のスポーツだけでなく日本古来のスポーツをやり、ゲームで遊び、ポーズし、鉄道の駅や街に出ているのが写っている。また、教室の場面、先生達や学校の事務員達の写真、それに昭和の頃の木造校舎そのものの写真も収められている。明治、大正、昭和初期の日本の教育については、「1935年代の岡山 • 女学校の弁当の時間」で更に詳しく述べている。
関連画像
1935年代の岡山 • 女学校の弁当の時間
1935年代の岡山 • 女学校の教室風景
1935年代の岡山 • 読書する女学生達
1935年代の岡山 • 女学校の薙刀の練習
1935年代の岡山 • 女学校の薙刀の練習
1935年代の岡山 • 女学生の弓道の練習
1935年代の岡山 • 女学校の卓球の練習
1935年代の岡山 • 「とうりゃんせ」の遊び
脚注
1 山田奨治 (2001). The Myth of Zen in the Art of Archery. Japanese Journal of Religious Studies, 28/1–2.
2 Onuma, Hideharu & DeProspero, Dan (1993). Kyudo: The Essence and Practice of Japanese Archery. Kodansha International, 20. ISBN 4770017340.
3 同書: 20.
4 同書: 20.
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引用文献
ドゥイツ・キエルト()1935年代の岡山・女学生の弓道の練習、オールド・フォト・ジャパン。2024年10月13日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/531/kyudo-no-renshu)
ライセンス可能
この写真はライセンスも可能です。ストックフォト(写真素材)を専門とするエージェンシーMeijiShowa(明治昭和)では、 明治、大正、昭和初期にかけてのアーカイブ写真・イラスト・ならびに古地図を、 エディトリアル・広告・パッケージデザインなどのライセンスとして販売しております。
写真番号:70302-0005
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