芸者が数人、京都のある料理屋の納涼床で寛いでいる。
この写真は、四条大橋の上、鴨川の右岸から撮ったもののようだ。薄い着物を着た女が酒を注いでおり、右手の二人の女は手に煙管を持っている。上敷きを敷いた床の上に行灯が二つ置いてある。
納涼床が初めて現れたのは江戸時代(1603~1867)。この頃裕福な町人達は鴨川の河原や浅瀬に床机を置いて客を接待した。京都の夏の身体を弱らせる暑さと高い湿度も、これでなんとか凌ぐことができた。
寛文年間(1661~1673)に、鴨川の治水工事が行なわれ川の両岸は石で補強された。その結果、茶店や、西瓜の切り身から田楽豆腐まで何でも売る屋台が現れ始めた。また、曲芸師、手品師などの大道芸人も現れ、終わることのない祭のような雰囲気が生まれ、これが賑やかな群衆を引き寄せた。納涼床が実際に舞台のような形を取り始めたのはこの頃。
明治時代(1868~1912)初期になると、新しい規制が幾つも定められ、納涼床もこれを逃れられず、床を設けることができるのは、7月から8月の二ヶ月間だけとなった。
明治時代に始まった日本の近代化は、納涼床の外観にも影響を与えた。多くの半永久的な舞台の脚は鉄製になり、大正時代(1912~1926)には屋根付きのものまであった。
これらは永続きせず、1935年(昭和10年)には豪雨のために納涼床が全て流されてしまい、その後工事が行なわれて現在見られる納涼床となった。
第二次大戦中納涼床は禁止されたが、1951年(昭和26年)になると何軒かの料理屋が再開し始めた。その後数年の間に納涼床は次第に人気が出て、納涼床を設ける申請を出した料理屋の数は40軒から50軒に及んだ。1
この頃には二条通と五条通の間で、毎夏90前後の納涼床が設けられた。夏の蒸し暑さを逃れて涼しく一息つける5月1日から9月30日の間、利用できる。五月と九月は昼間だが、六月から八月の間は夜のみである。
曲芸師や舞妓は疾うに姿を消したかも知れないが、夏の夕べを鴨川べりで過ごすのは忘れられない経験である。
この写真を撮った写真家については、永年多くの写真家の名前が挙げられて来た。最近再発見された「The Practical Photographer」の1896年9月号の記事によると、アマチュア写真家と冩真叢話編集者の伊澤雄司とされ、最終的に撮影者の問題は解決した。23
脚注
1 京の風物詩 京都鴨川納涼床への誘い。納涼床の歴史。2008年6月4日検索。
2 Bennett, Terry (2006). Old Japanese Photographs: Collectors’ Data Guide. Bernard Quaritch Ltd., 39. ISBN 0955085241
3 国立国会図書館。 冩真叢話(1891, 2番)。
4 納涼床について更に詳しいことは、京都鴨川納涼床協同組合に情報がある。
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引用文献
ドゥイツ・キエルト()1890年代の京都・納涼床と芸者、オールド・フォト・ジャパン。2025年02月08日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/384/noryoyuka_geisha)
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写真番号:70820-0003
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