大勢の歩行者で賑わう暑い夏の午後の伊勢佐木町。日傘を持っている人が多い。これは夏の射すような日光を避けるためだろう。
この絵葉書に写っている大きな白い建物は、落語や奇術で有名な寄席の新富亭で、1922年(大正11年)に大手演劇会社の東京吉本が買収した。1
横浜の町が作られたときは、外国人が居留する関内と地元の人々の住む関外の2つに分かれていた。その後何年にも亘って、この2つの地域を結ぶ橋が多く作られた。1911年(明治44年)にできた吉田橋は真っ直ぐ伊勢佐木町に続いており、何年もの間横浜で最も通行量の多い橋だった。2
伊勢佐木町は佐木町という名で親しまれ、1874年(明治7年)に埋立地に作られた。関内と横浜の風俗街に隣接しており、この町自体が多くの人々の行先だった。1877年には最初の芝居小屋ができている。1899年(明治32年)の大火事で関外の大部分が焼け落ちた後、再興されて以前にも増して人気のある町になった。
通りには衣料品店、食堂、土産物屋、それに漢字で大きく劇場や役者の名前が書かれている幟や旗を掲げた芝居小屋が数え切れないほどあった。その後映画館もここを本拠地に選んでいる。
この通りは外国人の間では「劇場通り」という名で知られていた。権威のあったガイドブックの「Terry’s Guide to the Japanese Empire」(1920)には、「カラフルな大通りで、人の波に溢れ、夥しい商店と道化芝居の小屋があって、旅行者には魅力的だ。」とある。2
このガイドブックの出版から3年後、関東大震災で横浜の町も伊勢佐木町も全壊した。間もなく再建されたが、震災前の魅力と混沌とした美しさは永久に失われた。
1930年代には、この通りを散歩することが「伊勢ぶら」と呼ばれるようになり、横浜での自由な時間の過ごし方として人気があった。しかし、この至福の時代は長く続かなかった。
第二次世界大戦中、数百機のアメリカ爆撃機による数十万発の焼夷弾爆撃で、この町は再び消失した。横浜の町の58%を下らない地域が破壊されたが、これは同じく恐るべき空襲を受けた隣の東京と同じ運命だった。
アメリカの元国務長官ロバート・S・マクナマラの生涯と時代をテーマにした、2003年のドキュメンタリー「フォッグ・オブ・ウォー」で、マクナマラはカーティス・ルメイ将軍指揮下でアメリカが日本の67都市に対してナパーム弾を使用したことに触れている。
それによると、「ルメーは.『もしこの戦争に負けていたら、我々は全員戦争犯罪人として処刑された筈だ』と言ったが、それは正しい。彼も、それに私も、戦争犯罪人だったのだ。」と語っている。
マクナマラは更に、「ルメーは、自分達の側が敗れたら自分のやっていることは不道徳だと思われた筈だと認めていた。しかし、敗れた場合は何が不道徳的で、勝った場合は何が道徳的なのだろうか。」と語っている。3
第二次大戦での空襲の後の伊勢佐木町
戦後伊勢佐木町は、再び復興した。今でも賑やかな商店街で、ファッションブティック、靴店、書店、コーヒーショップ、映画館、欲しいものは何でも売っている店が多く並んでいる。嘗て芝居好きを楽しませた新富亭のあった場所には、日本競馬会の大規模な場外馬券売り場エクセル伊勢佐木があり、日本で人気のある競馬の馬券が買える。
競馬に賭けるのは、この町ができて以来と言っても好いほど古く、日本最初の競馬場を外国人が作ったのは横浜の根岸で、1897年(慶応3年)のこと。
脚注
1 ウィキペディア、東京吉本。2008年4月4日検索。
2 Terry, T. Philip (1920). Terry’s Guide to the Japanese Empire Including Korea and Formosa. Houghton Mifflin Company, 16.
3 Morris, Errol (2003). 「フォッグ・オブ・ウォー」。ソニーピクチュアズ
4 「フォッグ・オブ・ウオー」の全文は、The Fog of War: Transcriptで読める。
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引用文献
ドゥイツ・キエルト()1910年代の横浜・伊勢佐木町二丁目、オールド・フォト・ジャパン。2025年01月25日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/199/isezaki-cho-2-chome-jp)
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