神戸を、現在の新神戸駅に近い山側から撮った写真。中央に見える広い道路は滝道(今はフラワーロード)である。この道は、この写真を撮った場所から少し歩いた所にある布引の滝に通じているので、そう呼ばれていた。
この道は、1871年(明治4年)に外国人居留地を水害から守るために付け替えられた、旧生田川の川床に沿っている。この写真が撮られた時は、神戸の町ができて未だ20年ほどしか経っていないが、既に主要な港町に発展しており、外国人も1,000以上住んでいた。その四分の三は中国人だった。
神戸港が外国人に開かれたのは、1868年(明治元年)1月1日。外国人は、防波堤ができて居留地の建築準備ができるまでは、日本家屋に住んでいた。この年の9月には、居留地は部分的に出来上がって、建物の建築が始まった。
ユニークだったのは、外国領事館の代表、地元の日本の役人、それに民主的に選ばれた外国人社会のメンバーによる居留地会議が居留地の管理運営を行なっていたこと。この会議は居留地が1899年(明治32年)7月17日に日本政府に返還されるまで、居留地の運営に好く機能を発揮していた。

神戸はできた時からブームの町だった。開港した時の人口は2,000人に過ぎなかったが、僅か10年後には爆発的に増えて20,000人になっていた。この発展と並行して、近代的な通信施設が導入された。1870年(明治3年)には神戸・大阪間に電信のサービスが始まり、2年後には神戸・大阪間の郵便サービスも始まった。二つの都市の間に鉄道が開通したのは、1874年(明治7年)のことで、僅か3年後には京都まで延長された。
最初の新聞である、Hiogo and Osaka HeraldとHiogo Newsが何れも英語で創刊したのは、開港して1年経っていなかった。日本語の神戸港新聞は1872年(明治5年)に創刊したが、永続きしなかった。しかし、1884年(明治17年)には別の日本語新聞の神戸又新日報が創刊したが、Hiogo and Osaka Heraldも永続きしなかった。1888年(明治21年)になると、Kobe Heraldが新しく英字紙として創刊した。
警察組織が初めて作られたのは1873年(明治6年)頃のことで、外国人3人と日本人が7人だった。外国人居留地内の法律を執行したのは領事団だった。1875年(明治8年)には、ガス灯が初めて神戸の道路に姿を現したが、小さな警察組織にとって役に立ったことは疑いない。
町が大きくなって来ると、元々の狭い村道では狭すぎて、幾つもの新しい道路ができた。その中でも栄町は最も重要な道路の一つとなり、銀行や大きな事務所が多く建てられた。
造船業は、港町として急速に発展したこの町で殆ど最初から大きくなった。1886年(明治19年)には、薩摩出身の造船業者川崎正蔵(1836~1912)が神戸に本格的な造船所を作ったが、彼はその時既に東京に川崎築地造船所を持っていた。彼の造船所は二つとも日清戦争(1894~1895)の恩恵を大きく蒙り、1896年(明治29年)には両社は合併して川崎重工業株式会社となった。この会社が、現在我々が知っている巨大企業川崎造船である。川崎は神戸で大きくなった多くの企業の一つに過ぎない。
1889年に神戸が市制を施行した時の人口は13万人を下らず、年間の貨物取扱いは100万トン以上で、日本の最も重要な港の一つになっていた。全ては僅か20年以内の出来事である。
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引用文献
ドゥイツ・キエルト()1880年代の神戸・山手からの眺め、オールド・フォト・ジャパン。2025年02月08日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/591/yamata-kara-no-kobe)
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写真番号:70219-0028
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