女性が二人と男性が一人、着物姿で畳の上の座布団に座っている。この部屋は襖で仕切られた広い部屋で、旅館の一室のようだ。
男は見事な木製の火鉢で手を温めているが、これは湯の保温に使われたもの。前に座っている女性は、お茶の用意をしているようだ。
襖は、広い部屋を手早く幾つかの狭い部屋に分けたり、また元の広い部屋に戻す場合、美的で効率の好い手段だった。しかし襖が特殊なのは、自分は一つの部屋にいながら別の部屋にも他人がいることが解るということ。襖で隔てられただけの家で育った家族の場合、家族全員が夫々固定した壁と扉で仕切られた部屋を持っている場合と比べると、お互いをより身近に感じ一体感があったに違いない。
もう一つの利点は、夏が暑い日本で襖を開けて家中に風を通すことができること。家の中と外部との境界は微妙で、変えられるものだった。
明らかに欠点なのは、当然プライバシーに欠けること。誰でも扉を開けたいと思えば、そうすることができる。イギリス人の旅行家で著作家のイザベラ・バード(1831~1904)は、1878年に日本の奥地を旅行して日本式の旅館に泊まって、このプライバシーのなさに怖れを感じて、妹にこう書き送っている。2
手紙を書こうとするのだが、蚤や蚊がうるさかった。その上さらに、しばしば襖が音もなく開けられて、幾人かの黒く細長い眼が、隙間から私をじっと覗いた。というのは、右隣の部屋には日本人の家族が二組、左隣の部屋には五人いたからである。私は、障子と呼ばれる半透明の紙の窓を閉めてベッドに入った。しかし、私的生活の欠如は恐ろしいほどで、私は、今もって、鍵や壁やドアがなくても気持ちよく休めるほど他人を信用することができない。隣人達の眼は、絶えず私の部屋の側面につけてあった。一人の少女は、部屋と廊下の間の障子を二度も開けた。一人の男が―後で、按摩1をやっている盲目の人だと分かったのだが―入ってきて、なにやら《もちろん》わけの分からぬ言葉を言った。その新しい雑音は、まったく私を当惑させるものであった。片方ではかん高い音調で仏の祈りを唱える男があり、他方ではサミセン《一種のギター》を奏でる少女がいた。家中がおしゃべりの音、ぱちゃぱちゃという水の音で、外ではドンドンと太鼓の音がしていた。街頭からは、無数の叫び声が聞こえ、盲目の按摩の笛を吹く音、日本の夜の町をかならず巡回している夜番の、よく響き渡る拍子木の音がした。これは警戒のしるしとして二つの拍子木を叩くもので、聞くにたえないものだった。それは私の少しも知らない生活であった。その神秘は、魅力的というよりもむしろ不安をかきたてた。私のお金はその辺にころがっていたから、襖から手をそっとすべりこませて、そのお金を盗んでしまうことほど容易なことはないように思われた。井戸はひどく汚れているし、ひどい悪臭だ、と伊藤が私に言った。盗難ばかりでなく、病気まで心配せねばならない!私はそんなことをわけもなく考えていた。
このスライドは、ニューヨーク州教育局が、生徒に日本のことを教えるために作成した、一連の日本のスライドの中の一枚。
脚注
1 マッサージ師。
2 イザベラ・バード 「日本奥地紀行」 高梨健吉訳 平凡社 P79~80。
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引用文献
ドゥイツ・キエルト()1920年代 ・お茶を飲む、オールド・フォト・ジャパン。2025年04月29日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/634/ocha-o-nomu)
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