巡礼が3人、古びた松の木の下で休んでいるが寺の境内のように見える。
白い法衣を着て菅笠を被り、草鞋を履いている。また長い杖を持って、原始的な背負い袋を持っている。右側の巡礼は、首の周りに数珠をかけている。菅笠には「金」と「同行」の文字が書いてあるが、これは香川県の金刀比羅宮(金毘羅さんの名前の方が有名)への巡礼の途中であることを物語っている。
日本の巡礼には、大きく二つのタイプがある。一つは一連の寺、神社や聖地を巡る遍路で、もう一つは富士山や三重県の伊勢神宮のような特定の一つの聖地に参詣するもの。
日本で巡礼が始まったのは奈良時代(710~794)だが、実際に普及するようになったのは平安時代(794~1185)になってからで、その頃は概してエリート階級のものだった。江戸時代(1603~1863)には、巡礼は一般民衆の間に大変普及して、殆ど全ての人が一生に一度は巡礼に出るものとされたほどだった。明治時代になっても、人気は明らかに衰えたものの、未だ普通に行なわれていた。
巡礼に出る人々は、夫々に理由があった。信仰のためであったり、病気が治るのを神仏に祈るためだったり、或いは聖衣、聖人のミイラ、決して枯れることのない井戸、血の涙を流す像などに身近に接したいという場合もあった。江戸時代には旅行は厳しく制限されていたので、旅をするのはこれしかないから巡礼に出るという場合もあった。そこで、巡礼が参詣する所は世俗的な娯楽で有名になった。
外国人でこれを見た人々は、例外なく日本の巡礼の敬虔さに疑いを呈している。あるアメリカ人旅行者の書いたものには、日本の巡礼は「イタリアの農夫でもやらないくらい悦楽と信仰を一つにしている。金があれば使う。吝嗇の悪徳は日本にはない。」1とある。
イギリスの日本学者として有名なバジル・ホール・チェンバレン(1850~1935)は、東京帝国大学の教授で小泉八雲の友人だったが、「Things Japanese」の中で日本の巡礼に対する自分の印象を書いている。2
「日本人はよく言われているように、宗教については軽く考えている。伊勢などの信仰の目的になっている土地は、夜の娯楽でも知られている。どの特定の神社の場合でも、そこでの信仰について細かく詮索されたことはない。金毘羅は仏教だったが、現在の政府の命令を受けて今では神道である。それでも巡礼はそこに集まるので、聖職者が神学的に逸脱しても、神社の名前の持つ神聖さがそれを上回る。」 … 「多くの人々が休暇を楽しんでいるに過ぎないことは、疑いの余地がなく、そこで見られるのは大きな保養地の場面である。幸せな人々が楽しむために押しかけて、その序でに、間違いなく皆と同じことをするように、鐘を鳴らしたり、賽銭をあげたりして少しばかり祈りを捧げるのだ。」
しかし大変真剣な巡礼も多かった。例えば弘法大師(774~835)ゆかりの四国にある88箇所の霊場を巡礼するのは、極めて真剣でなければできないことだった。現在の健康なハイカーでも、この1,600キロに及ぶ長い道のりを辿るには2ヶ月かかる。昔は歩き通せない人が多かった。
一人の遍路(この特別な巡礼はそのように呼ばれるが)が1819年のある憂鬱な日の日記に記しているのは、七番札所に当たる寺の門を通る時に、別の遍路の死体を見たということ。彼の同行者からは、自分達の泊まった宿で子供の遍路が死んだと聞かされ、間もなく彼等は別の死体に出会ったのである。3
このような困難があったから、巡礼を終えるには相当な信仰心と献身がなければできなかった。人々はそのことを承知していたので、特に四国では遍路に、物や金さえ恵むことが普通に行なわれていた。この習慣は接待と呼ばれ、今でも形を変えて続いている。今では遍路にはティッシュや、蜜柑を恵んでいる。昔は、宿や食べ物、草鞋などを提供したり、遍路の背負い袋を暫くの間持って運んでやるなど、その他遍路を助けたり、自分達を遍路と弘法大師との関係につなげるようなことを行なっていた。
オリバー・スタットラーは、多年四国巡礼について研究し、著書の「Japanese Pilgrimage」の中で、この接待についてよく知られた話について素晴しい紹介をしている。4
「18世紀の終わり頃のこと、近くの村に徳弥という働き者の若い百姓がいた。その村の土地は、米、小麦、大麦や、柔らかな輝かしい青色の染料として大変好まれて、金になる地元の産品の藍などが育たない痩せた土地だった。徳弥は、進取の精神に富んだ賢い若者で、この土地でもうまく育つ作物を探す努力を続けたが、成功しなかった。 或る日一人の遍路が通りかかったので、徳弥は接待しようとしたが、家には何もなかったので、遍路の背中と肩を揉んでやった。揉んでいる間、徳弥は村の暮らしの厳しさを話すと、遍路は砂糖黍ならこの土地で育つかも知れないと言った。自分が住んでいるのは九州だが、砂糖の生産で知られた藩に近く、この村の土地がそこに大変似ているようだという話だった。この栽培と製造の秘密は、大変厳しく守られているので、その遍路もそれ以上のことは知らなかった。 切って持ち帰ったものから芽が出て、3年後にはそれを増やして広がったことがわかったが、残念なことに砂糖の作り方までは学んでいなかった。そこで徳弥は再び九州に潜入した。砂糖造りの仕事にありつくのに2年かかり、造り方を全て学ぶにはあと3年かかった。遂に村に戻ることができた徳弥は、砂糖造りを始めて九州産より好い砂糖ができた。村は栄えて、砂糖造りは谷あいに広がり、この地の砂糖は有名になり、大阪の商品取引市場で高値がつくようになった。徳弥は藩主によって武士に取り立てられ、帯刀を許され、藩全体の砂糖生産の奉行職に任ぜられた。そして、徳弥が自分の事業を始めるきっかけを作った、あの無名の遍路が忘れられることはなかった。」
スタットラーが徳弥という名前だけで紹介した男は、丸山徳弥のこと。彼は今でも徳島県では砂糖黍栽培を始めた人として称えられている。彼のやったことは今でも記憶されているが、知識の交流は繰り返し無名で行なわれた。マスコミや全国規模の教育のない時代だったから、知識や物事のやり方を改善する方法を広げるのに大きく役立ったことは疑いもない。
巡礼の道中の住民は、巡礼に惜しみなく施しをすることが多かったが、それでも巡礼は金のかかることだった。巡礼の出費を助けるために、村々や近隣で講中と言う巡礼の組織を作る場合が多かった。講中に加わった者は毎月小額の金を講中に納め、年に一度、籤引きで選ばれた運の好い者が巡礼に出たが、その費用は講中が負担した。
殆どの巡礼は道中にある旅館に泊まった。巡礼のお蔭で、日本には安定した旅行産業が発達し、数千人の巡礼案内、無数の土産物屋、料理屋、宿屋が道中にあった。宿屋がない場合は、寺や神社が提供する、行者小屋という小屋があることもあった。ここで巡礼達は休息し身体を清めることができた。しかし宿泊の施設は民間によることが一般的で、現在150年以上の歴史を持つ宿屋の多くは、その起源を巡礼宿に遡ることができる。「1890年代 • お客のお出迎え」では、巡礼が日本の旅館業に与えた影響について紹介している。
近代化した日本では、巡礼は殆ど人気のないものとなった。しかし、過去数年間にこの風習が復活している。歴史的な巡礼道中が、今でも全てではないが多く残っているし、地元の観光業界では新たな道中を作り出すのに力を入れている。しかし歩いて巡るのは稀で、現代の巡礼は多くが自動車、鉄道、(特に貸切の)バスを利用する。目的地には土産物屋やその他の商店が多いことを見ると、信仰と楽しみを一つにしていた古い習慣も生き残っているようだ。
脚注
1 Dewey, John; Chipman Dewey, Alice (1920). Letters from China and Japan. E. P. Dutton & Company: 127.
2 Chamberlain, Basil Hall (1905). Things Japanese, being Notes on Various Subjects Connected with Japan for the Use of Travellers and Others. John Murray: 370-371.
3 Statler, Oliver (1983). Japanese Pilgrimage. William Morrow and Company, Inc.: 187.
4 同書:184-186.
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引用文献
ドゥイツ・キエルト()1880年代・巡礼、オールド・フォト・ジャパン。2025年03月17日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/593/junrei)
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