祭服を着ている一人の神主の、誰が見ても豪華な写真。
神道は日本で生まれ、元来は極めて地方色の強い信仰の形だった。日本の国自体よりも古く、統一国家ができる前から存在していた。信仰の対象は「神」で、それは先祖、自然物(例えば富士山やある特定の木など)、それに豊饒や成長などの自然現象である場合が多かった。しかし神道を今日の姿にしているのは信仰以上のもので、「清め」と「穢れ」の間の緊張関係、自分達の暮らしや暮らしの場から穢れを払うことを強調していることだった。神道の祭祀は、穢れを払うために行なわれるものが多い。
キリスト教やイスラム教は、初めから教会やモスクなどの定められた場所で、集団で礼拝するものだったが、神道は元来生活の一部であるため何処でも体験でき、集団ではなく個別に礼拝することが多かった。むろん、季節毎の祭も大切だった。実際に神道の神社ができたのは、飛鳥時代(538~710)から奈良時代(710~794)に仏教が伝来して仏教寺院が建てられたことに対する反応だった。
この時代、天皇が支配していたのは日本の一部に過ぎなかった。天皇家による統治を正統化するために、古事記や日本書紀が書かれて日本の伝説や言い伝えが統一した記録になった。日本の成立については多くの物語や伝説があるが、その中で天皇家に関わるものを取り上げて強調し、その統治を正統化したのである。同時に道教、儒教や仏教の思想を受け入れて、中央集権を単純なものにした。
イザナミ、イザナギや天照大神などの物語などは、現在では全国的な伝説と思われているが、元来は地方の信仰だった。
神道が仏教を受け入れたとよく書かれているが、一般的にはむしろ両者の融合と言うべきで、仏陀はもう神の一つと見られていた。これは神仏習合と呼ばれるもので、結果として基本的に一見一つの新しい宗教のようになった。これと、特に神道がどのように発展してきたかは、今でも議論が多い。
しかしはっきりしているのは、既に奈良時代から寺院と神社が共に建てられて、一方が他方を守護していたこと。これは今でも姫路の書写山圓教寺などの仏教寺院に多く見られる。
江戸時代の末になると、日本のユニークさを説明しようとする中で、国学に対する関心が高まった。真に日本的なものと、外国から入ってきたものを区別しようとした学者が多く現れたが、この思想に重要な影響を与えたものは水戸藩の水戸学と、本居宣長(1730~1801)などの学者だった。
これ等の思想は、その後明治維新に極めて大きな影響を与えることになり、神道が国教とされて神道と仏教のつながりが禁じられた。不幸なことに、これによって神道は日本が軍国主義を受け入れて惨憺たる結果に終わったことに大きな役割を演ずることになった。
国家神道が第二次世界大戦中問題の多い役割を演じたために、戦後は公式には停止され、1947年の日本国憲法では政教分離が定められた。
戦後、神道は新たな役割を見出す必要に迫られて、天皇家国家以前の民俗宗教に戻ることが多かった。現在の神道は幾つかの形に分かれているが、神社本庁が統括している神社神道の役割が最も大きい。
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引用文献
ドゥイツ・キエルト()1880年代・神主、オールド・フォト・ジャパン。2025年02月08日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/555/kannushi)
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