典型的な日本の部屋の中で、低い机に向って読書している女性。
この部屋は座敷と呼ばれ、現在の日本ではますます極めて稀になっているが、明治時代には大変人気があった。座敷は客を迎える格式のある部屋であることが多く、通常客は床の間の前の上座に座った。客は常に床の間を背にして座り、客にこの部屋の中の最も大切な部分を見せるのは慎みのないことだった。
床の間の広さは通常畳半畳分だった。床は高くなっていて通常木で作られたが、時には畳を敷くこともあった。光を採り入れるために、横に窓がある場合が多かった。床の間にある主なものは、床柱、掛け軸、花か枝を活けた花瓶、それに置物だった。
床柱は床の間の前面の角の一つにあり、杉かそれより珍しい樹木の幹をそのまま使うことが多かった。特に茶室の場合、松、楓、桑、白檀、黒檀なども使われた。床柱は重さを支えるものではなく、純然たる装飾だった。掛け軸と活け花は季節によって変わり、洗練さを表すやり方として定着していた。
床の間は、14世紀に僧侶が家庭内の仏壇として作ったのが起源である。この宗教的な空間が、壁に埋め込まれて装飾的な機能のみを持つようになったのは後世になってからのこと。
床の間の左側には碁盤が置いてある。碁盤を使う碁は、今でも日本で人気がある。その上には、碁石を入れた碁笥がある。
部屋の中央には、茶の湯を沸かしたり、部屋を暖めるのに使う火鉢と、床に座る時に使う座布団が二枚ある。
障子が開かれていて、縁側が見える。縁側は日本の家屋で大変重要な役割を演じた。この時代、屋外でさえも家屋の一部と考えられており、ここは屋内と屋外の境目だった。雨が降っていたり、暑い日であっても、障子を開いて新鮮な空気と日光が入ってくると、この境目は和らげられた。ここはまた、子供の遊び場、家人が郵便配達や近所の人とお喋りをする場、暑い夏の夜には気持ちよく過ごせる場として、大切な社交の場だった。
外側にある木の板を夜や雨の日に閉めても、縁側は雨風に曝されたままで、家が開いているという印象を与えた。現在の家屋にあるような、完全に隔離されたという感じはなかった。昭和の時代になると縁側が屋内の一部となり、この木の板縁側の外側にあるという、過渡期があった。
残念ながら、現在の日本家屋からは縁側は完全に消えた。障子も殆どなくなった。これは本当に悲しいことである。これらは、家族構成が変わったり、特別な行事があるなど昔からある変化のニーズに対応する素晴しい解決策だった。屋内と屋外の境目としてだけでなく、部屋の間でも使われ、信じられないほど融通の利く空間ができた。これを使うだけで、部屋を広くも狭くも使えた。
昔からの日本建築では、西洋のように決まった機能を持った空間という考え方はなかった。各部屋は異なる状況や、一日の時間によって、異なった目的のために使った。一つの部屋を、食事、勉強、客の応対、寝室、病室や客間としてさえ使った。障子は、この柔軟性を高めた。
現在の日本家屋には、最早このような柔軟性はなくなっており、古い家屋が機能しなくなると、新たなレイアウトを作るための「リフォーム」に多額の出費を余儀なくさせている。
この部屋のユニークな点は、模様のある絨毯が敷いてあること。日本家屋では畳の上に敷物を敷かないのが普通だった。明治時代になると、床に絨毯を敷くことは西洋の影響でモダンと見られた。
脚注
1 日本の伝統的な建築の考え方については、JAANUSという日本の建築史、美術史用語についての優れたオンライン辞典がある(英語)。
2 日本の伝統的な家屋について更に知りたい場合は、The Traditional Japanese Houseを見られたい(英語)。
3 この写真は、玉村康三郎のアルバムにあったものだが、撮影者は不明。
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引用文献
ドゥイツ・キエルト()1890年代・室内の女性、オールド・フォト・ジャパン。2025年04月29日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/483/shitsunai-no-josei)
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写真番号:70621-0008
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