19世紀末の東京の歓楽街、吉原の遊廓。当時の建築は西欧の影響を強く受けているが、吉原は日本特有の雰囲気を未だ残していた。
吉原が最初にできたのは1617年で、日本橋近くにあった。17世紀の後半になって、市内から浅草の近くに移されて新吉原と改名したが、間もなく「新」は使われなくなった。
その後吉原は何度も焼失したが、その都度灰の中から立ち上がり、全く新しい顔を見せた。この新しい場所に移って以後ここを廃墟と化した火災の数は多すぎて、殆ど把握できない。1677年1月10日に最初の火災が起きてから、この写真が撮影される少し前の1896年3月15日の間に起きたとされる火災の回数は34回を下らない。
その中で吉原が全焼した火災もかなり多かった。火災にも色々あって、浴室が火元になったもの、煙草屋から出たもの、寺院から出火したものなどがあった。火災の被害が大きかったばかりでなく、その間に多くの人命も失われた。1
この写真を撮影した後、吉原はまた火災に見舞われた。最も壊滅的だったのは、1913年、1923年と1945年の火災。
脚注
1 De Becker, J. E. (1899). The Nightless City or the History of the Yoshiwara Yukwaku. Max Nössler & Co: 249-254.
2 この写真が撮影された遊廓がどこにあったのかは明らかでないので、このGoogleの地図では昔の入り口で、現在の台東区千束4丁目にあった大門の位置を示してある。
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引用文献
ドゥイツ・キエルト()1890年代の東京・吉原の遊廓、オールド・フォト・ジャパン。2025年01月25日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/469/yoshiwara-yukaku)
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写真番号:70621-0002
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