東京の吉原遊郭で遊女達が窓の内側に座っている風景。ここでは、それほど高級でない娼家の遊女達が「張り見世」と呼ばれた木の格子の後ろに座っている。このように遊女達を並べて見せることには、海外から厳しい批判があり、それが圧力となってこの「張り見世」は、1916年に禁止された。
吉原遊郭ができたのは1617年で、当時は東海道の起点日本橋の近くにあった。17世紀の半ばに、浅草に近い市外に移転して、新吉原と呼ばれたが、年が経つにつれて「新」が取れて再び吉原となった。
この遊郭は濠で囲い込まれており、入り口は一箇所しかなかった。吉原の遊女達は、書面で許可を取らなければここから出られなかった。17世紀の頃でも、普通の女性が好奇心で外から入ろうとしても、許可が必要だった。
1900年頃の吉原には126軒の娼家があって、約9,000人の遊女達がいた。これらの娼家は、大店、中店と小店の三つに格付されていたが、大店は5軒、中店は4軒しかなかった。これらは高価で、一見の客は寄せ付けなかったので、客の殆どは小店に通っていた。
遊女達自身にも幾つかの階層があり、最上位の太夫は書道から舞踊まで、日本伝統の芸を完全に身につけた教養の高い女性だった。「売春」という言葉は、このような芸術家とも言うべき女性を表すには極めて不適切だ。
娼家へ行くには、特に高級娼家の場合手の込んだ習慣があって、客はいきなり玄関から入るわけにはいかなかった。客を、一夜を過ごす吉原の遊女に紹介するのは引手茶屋と呼ばれる専門の茶店で、この写真の頃は遊廓内には少数しかなかった。むろん遊廓の外には多くあったが、全てが良心的とは限らなかった。
引手茶屋には、夫々3人から4人の女中がいて、客が来ると女主人と共に走り出て、嬉しそうに「いらっしゃい」と言って出迎えたが、これは現在のバーのホステスもやっている習慣。
中に迎え入れられると、客は何人かの遊女達の写真を見せられて、その中から一人を選ぶ。以前に来たことのある客であれば、逢いたい遊女の名前を言えばよかった。
それから、女中の一人が客を選んだ娼家に案内し、芸者が音曲、踊りなど客の望むものを提供するオプションなどの交渉事を手伝う。その後の食事中、この女中は客の給仕までするが、特に大切なのは客の酒が途切れないようにすること。
やがて客を、一夜を過ごす部屋に案内し花魁が現れると静かに引き下がる。このように客の世話をするのはかなりの仕事で、動き回ることから「廻」と呼ばれた。
朝になると客は引手茶屋に戻り、金を払う。娼家にではない。引手茶屋は、毎月14日と30日に娼家に金を払った。
このように引手茶屋には防衛的な緩衝機能があった。金を払わない客があれば、他の引手茶屋にも知らせ、その客は締め出されて、どの娼家にも入れなくなる。1
1846年の吉原の地図
吉原は度々焼失した。その中でも最近で壊滅的だったのは、1911年(明治44年)、1923年(大正12年)と1945年(昭和20年)。しかし、その後1958年に売春が公式に廃止されるまで公認の遊廓として盛んだった。この新しい法律で売春がなくなったわけではなく、この辺りには多くのソープランドがあるが、これらは娼家の現代版である。
遊廓やそこで働いた人達の画像は、右側のコラムにある「遊郭」でも紹介している。
この写真は、どの娼家を撮ったものかわからないので、このグーグルの地図では、現在の台東区千束4丁目にあった大門の場所を見せている。
脚注
1 De Becker, J. E. (1899). The Nightless City or the History of the Yoshiwara Yukwaku. Max Nössler & Co.
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引用文献
ドゥイツ・キエルト()1910年代の東京・吉原の遊女、オールド・フォト・ジャパン。2025年01月25日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/351/yoshiwara-no-yujo)
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写真番号:70130-0006
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