160301-0026 Shinagawa Station Tokyo 1880s

1880年代の東京
品川駅

撮影者 内田九一
発行元 内田九一
メディア 鶏卵紙
時代 明治
場所 東京
写真番号 160301-0026
注文 デジタルデータプリント
著者
翻訳者

つい題名を疑ってしまう写真であるが、事実19世紀末の品川駅は写真に見られるような田舎ぶりで、駅の際まで東京湾の波が寄せていた。

当時は誰も、郊外に佇むこの小さな駅がやがて大規模なビル群に成長するとは予測しなかっただろう。今日では1日の乗降客数が75万人に達する、日本で最も忙しい駅のひとつ。1

地味な場所と外観にも関わらず、品川駅は日本の鉄道網の発展において重要な役割を果たした。明治5年(1872年)6月12日、この品川駅と横浜を結ぶ国内初の鉄道が開通された。重要な貿易港と化した横浜の居留地は、品川からおよそ20km南西に位置していた。

80115-0049 - 品川の地図(明治12年)
明治12年(1879年)品川付近の東京湾 1.新橋駅 2.月島 3.浜離宮 4.品川駅 5.御台場 6.品川宿。20世紀には、この地図に見られる東京湾のほぼ全てが埋め立てられた。

地図から明らかなように、品川は東京の外れに位置していた。そのため、旅行者にとっては品川終点の鉄道は相当不便なものだった。当時、品川は東京の一部ですらなく、誰ひとり深く考えることもなかった。品川は郊外だった為、多数の東京の古地図に含まれなかった。

鉄道は銀座に近い新橋まで開通される見通しであったが、日本軍は土地に鉄道を敷設することを躊躇した。最終的に線路が真新しい新橋駅まで拡張されるまで何ヶ月もかかった。 1872年10月14日に明治天皇隣席のもと、新橋-横浜間の鉄道が正式開業された。それから長い年月、 乗客は彼らの目的の行き先とは無関係の品川駅を見物しに訪れた。事実あまりにも意味をなさなかった品川駅は、19世紀末から20世紀初頭に出版された日本旅行ガイドブックにほんの数行の解説しか掲載されなかった。

写真が撮影された数年後に相当するであろう1890年に出版された W.E.L.キーリング著の有名な日本旅行ガイドブック「Keeling’s Guide to Japan」には、 品川の解説がわずか103の単語で次のように記されている。2

「多くの漁師がこの地に住み、毎日大量の魚を東京へ運搬している。ここから湾を望むことができ、遠くには要塞が見える。要塞は日本人がフランスのエンジニアの指導のもとで、東京の防衛を目的とし建設されたものであったが、現在は解体されてしまった。時々、旅行者は豊富に生育している牡蠣のほか海老や蟹を獲りに訪れる。この先には停泊している帝国海軍船舶が見える。11月の終わりは、楓の木が最も綺麗に色づく時期なので是非この町を訪れてみてほしい。」

120411-0011 - 海苔の摘採船、品川
海苔の摘採船、品川。明治28年(1895年)

旅行ガイドブックの品川への薄い関心にもかかわらず、初期の日本鉄道立案者達がこの場所に駅を設置した事実はさして不思議ではない。品川は何百年もの間、当時江戸としても知られていた東京の最も重要な出入り口として役割を果たしていた。品川宿は、名高い東海道の第一宿で、江戸の中心地・日本橋の起点を後にした旅人が最初に立ち寄る宿だった。また江戸を目指して旅する者にとっては、江戸の町に入る前に出くわす最終宿だった。

東海道の他に、江戸とその他各地を結ぶ街道は4つ存在したが、東海道が最も賑やかだった。品川は四六時中活気に溢れていた。

江戸時代(1603年-1868年)、品川宿は移動する公人のために約100人の人夫と100頭の馬を常に備えていた。それ以上の人数や馬を要した場合には幕府近隣の助郷村から徴用した。2

公人の他に、旅行者、また定期的に大規模な数の随員を引き連れた大名も東海道の利用者だった。

1600年の徳川幕府創設から数年後、参勤交代制度が設けられ、大名は定期的に領地と江戸の往復が義務付けられた。大抵150〜300人の家臣を連れた行列は江戸ではほぼ日常の出来事だった。

頼朝公行烈之図
頼朝公行烈之図

膨大な人数の往来のおかげで、品川には多数の茶屋、宿屋、そして遊郭が存在した。天保14年(1843年)頃には93軒もの遊女屋があり4 本質的には東京の伝説的な吉原遊郭の歓楽街と並ぶほどの接客や快楽を提供していた。

多くの品川住民は、日々旅行者に触れていたにもかかわらず保守的で、19世紀末の日本中に急速に押し寄せた変遷にはほとんど関心を抱かなかった。事実、 鉄道がすぐ傍を通過する事に強く反対する者もいた。結局のところ、鉄道は駅に近い内陸に向かって敷設されたため、海岸沿いの町を完全に避けることとなった。

このため、駅から宿場まで辿りつくには少々手間がかかり、煩わしさが増した。駅周辺は繁盛し、古びた宿場は次第に孤立していった。しばらくの間は快楽街として存続することが出来たが、かつての品川はガイドブックが証言しているように、鉄道開業以降数年のあいだでほとんど重要性を失った。再び品川が重要な役割を果たすようになるまで数十年かかることになる。それまでには宿場の遊郭のほぼ全てが消滅した。

20世紀の間に、東京湾の大部分が埋め立てられた。 最近では、東京圏で最も美しい景色のひとつでもあった湾岸のすぐ傍に品川駅が存在していた事実を知っている人は滅多にいない。

現在の地図を見る

終わりに

写真に見られる歩道橋は明治15年(1882年)に架けられた可能性が最も高い。5 初期の品川駅が鮮明に写った写真は非常に稀であるため、個人蒐集のひとつとしてこの写真を所有できたことは私にとって極めて幸運なことだ。

品川・日之出/歌川 広重
東海道五十三次 品川・日之出/歌川 広重(1797–1858)

脚注

1 East Japan Railway Company. Transportation // Tokyo Metropolitan Area Network, Intercity Network, and Shinkansen (pdf), Annual Report 2017, 50. 2018年9月24日参照。

2 Farsari, A. (1890). Keeling’s Guide to Japan. Yokohama, Tokio, Hakone, Fujiyama, Kamakura, Yokoska, Kanozan, Narita, Nikko, Kioto, Osaka, Kobe, &c. &c. Kelly & Walsh, Limited: 53.

3 品川区立品川歴史館 東海道品川宿 (pdf)、品川歴史館常設展示の解説シート。2018年9月24日参照。

4 ibid.

5 三浦彩子、小野田 滋(2009 年 6 月)明治期における鉄道跨線橋の沿革に関する研究 (pdf)、日本建築学会技術報告集 第 15 巻 第 30 号,577-580。2018年9月24日参照。

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引用文献

ドゥイツ・キエルト() 1880年代の東京・品川駅、オールド・フォト・ジャパン。2025年01月25日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/840/shinagawa-eki)

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コメント

品川駅の画像の説明で、この写真の範囲の東京湾は干拓とありますが、干拓では無く埋め立てです。

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(著者)

@こーうちさま: ありがとうございます。英語ではどちらの単語も「reclaim」なので、日本語には違う単語があることを知って驚きました。勉強になりました。

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