70124-0019 - Oriental Hotel, Kobe, 1910s

1910年代の神戸
オリエンタルホテル

撮影者 撮影者未詳
発行元 発行元未詳
メディア 絵葉書
時代 大正
場所 神戸
写真番号 70124-0019
注文 デジタルデータ
著者
翻訳者

オリエンタルホテルと言えば、100年以上に亘って神戸の顔だった。この写真が撮られた頃は、日本で最高のホテルの一つであり、その上最高の料理が味わえる場所の一つとして有名だった。

ここに惹きつけられたのは神戸を訪れた外国人ばかりではなく、日本の恵まれた階級の人々も、上流社会の社交場として利用した。谷崎潤一郎の名作「細雪」には、主人公一家が特別な場合にオリエンタルホテルをよく利用するのが出て来る。お見合いをしたのもこのホテルだった。

明治30年代・港から見た神戸のオリエンタルホテル
明治30年代・港から見た神戸のオリエンタルホテル

料理は創立当初からオリエンタルホテルの神話の一部だった。事実最初のオーナーだったフランス人のルイ・べギュー(Louis Begeux)は、1887年(明治20年)に神戸の外国人居留地81番地(京町)でオリエンタルホテルを開業する前は、1886年(明治19年)頃から122番地でフランス料理店「レストラン・フランセーズ」(Restaurant Française)を開いていた。

当時の新聞「The Pioneer.」の次の記事にあるように、べギューは確かに料理場の魔術師だった。これを書いたのは、現在はディズニー映画で有名になっている「ジャングルブック」で間もなく世界的に知られることになる、ラドヤード・キップリングに他ならない。キップリングは1889年(明治22年)にこのホテルに泊まった。1

その前に、このオリエンタルホテルのオーナーで素晴しい人物のべギュー氏の平安を祈って、称えさせて欲しい。彼のホテルは食事ができる場所だ。彼は単に料理を出すだけではない。彼の出すコーヒーは麗しのフランスのコーヒーだ。紅茶と一緒に出るのはぺリティケーキ(他より美味)で、これには並みのワインがついているが、味はよろしい。べギュー氏とべギュー夫人万歳!この「Pioneer.」がお世辞を並べるための新聞なら、私は貴方が出すポテトサラダ、ビフテキ、魚のフライ、それにブルーのタイツを着て大変好く訓練された貴方の日本人使用人達のことをトップ記事に書くことだろう。この使用人達は、ベルベットのコートは着けていないが皆小柄なハムレットのようで、口に出さない頼み事でも聞いてくれる。いや、これは詩、好い暮らしのバラードに違いない。私は、ペナンのオリエンタルホテルの他に類のないカレー、今でも未練がましく記憶に残っているシンガポールのラッフルズのタートルステーキ、それに今でも激賞したい香港のビクトリアホテルのチキンレバーと子豚などを食べたことがある。しかし、神戸のオリエンタルは、これら三つのホテルに勝る。このことは覚えていて欲しい。また、世界を四分の一周して来て大満足の、口先の上手い人のことも。

面白いことに、オリエンタルホテルという名が1879年(明治12年)のJapan Directoryに載っている。持ち主は79番地のG・ファン・デア・フリース商会。オランダ人のG・ファン・デア・フリース(G. van der Vlies & Co.)は1872年(明治13年)からこの住所で載っているが、ホテルについては何の記載もない。1880年(明治13年)には有名なドイツの社交クラブのクラブ・コンコルディア(Club Concordia)がこの住所で載っているが、オリエンタルホテルの名前は1888年(明治21年)まで見当たらない。1882年のJapan Directoryは、外国人居留地外の57番地(ほぼ現在の元町に当る)にあるA・C・ピント(A. C. Pinto)所有のオリエンタル・インを載せているが、これは無関係なことは明らか。

1897年(明治30年)には、オリエンタルホテルは何人かの地元の実業家の手に渡ったが、その一人は1903年に六甲山に日本で初めてゴルフコースを作る、アーサー・へイスケス・グルーム(Arthur Hasketh Groom)だった。ホテルは有限会社となり、べギューの息子が雇われてマネジャーとなった。

オリエンタルホテルの前の人力車、明治20年代
神戸の外国人居留地で80番地のオリエンタルホテルの前の人力車。 明治20( 1887年)から明治39(1906年頃)までここにありました。 イギリスの作家ラドヤード・キップリングここに泊まった。

この事業は成功して、1907年(明治40年)にはオリエンタルホテルは有名な海岸通で湾の美しい眺めが見える、6番地の全く新しい建物に移った。これが上の写真に写っている建物である。設計したのはドイツ人のゲオルグ・デ・ラランデで、今でも神戸の新しいシンボルとなって残っている風見鶏の館を設計した人物。
 
この新しい場所では、泊り客には船の汽笛の低い単調な音と、それにパイロットのボートが繰り返す警笛の高い音がアクセントを与えるのが海を渡って聞こえた。その間中、賑やかなアジアの港の音や自分達の前に道を空けろと怒鳴る人力車夫の叫び声、それに積荷を降ろす逞しい港湾労働者の叫び声やロビーにいるホテルの泊り客が話す外国語が交錯して聞こえていた。

1910年代・神戸オリエンタルホテルのロビー
1910年代・神戸オリエンタルホテルのロビー
1910年代・神戸オリエンタルホテル客室
1910年代・神戸オリエンタルホテル客室

1917年(大正6年)、このホテルは大手海運会社東洋汽船に買取られ、全面的な改修が行なわれて、現在の航空会社が経営するホテルチェーンと同じような形態に生まれ変わった。ちょうど9年後に、東洋汽船はこのホテルを日本の実業家グループに売却し、オリエンタルホテル㈱ができた。
 
色々と変動はあったが、ホテルは事業として大きな成功を続け、食事が素晴しいことで有名だった。ヘレン・ケラー(1880~1968)は1937年に来日した時、住友男爵の神戸の別荘に数日滞在したが、住友男爵はオリエンタルホテルのシェフに彼女のための食事を準備させた。「私達は、これまで食べた中で一番美味しい料理だった。」と彼女は後年書いている。2
 
ホテルは第二次大戦中に焼失したが、直ぐに再建されて、新しい建物が64番地に1949年(昭和24年)2月19日に開業するまで、占領軍が使っていた。その頃でも多くの知名人を含めて、外国人客が先ず選ぶホテルだった。例えば、1954年には映画の伝説女優マリリン・モンローと野球の大選手ジョー・ディマジオが泊まっている。

残念ながら、このホテルは1995年の震災で再建不可能な程破壊された。10年程経って取り壊され、キップリング、ケラー、谷崎、モンロー、ディマジオやその他数え切れない著名人が登場した一世紀以上に亘る歴史を終えた。

 70421-0003 - 神戸オリエンタルホテルのラゲッジラベル
神戸オリエンタルホテルのラゲッジラベル

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脚注

1 Kipling, Rudyard (1899). From Sea to Sea: Letters of Travel, Part I. Charles Scribner’s Sons, 368-369.

2 Lash, Joseph P. (1997) Helen and Teacher: The Story of Helen Keller and Anne Sullivan Macy. Addison Wesley Publishing Company, 645

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引用文献

ドゥイツ・キエルト()1910年代の神戸・オリエンタルホテル、オールド・フォト・ジャパン。2024年03月29日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/558/oriental-hotel-jp)

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写真番号:70124-0019

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