竹篭造りの作業場で働く若い女性と婦人達。
明治時代(1868~1912)に日本の指導者達が国家の経済発展の躍進を始動させた時、日本の女性の役割を永久に変えてしまった。女性達の多くは、当時全国に雨後の筍のようにできた無数の工場で働くことになった。日本の女性達が少ない賃金で長時間意欲的に働かなかったら、日本が工業化に成功することはなかったろう。これは数字が物語る。1894年には、木綿工場の工員の90%は女性で1、しばしば完全に非人間的な条件で働いていた。2
江戸時代(1603~1868)、日本社会の根本は序列と年長者に対する尊敬を強調する儒教の教えだった。社会の最小単位は個人ではなく家で、祖父母、息子と嫁、その子供達で構成されていた。この家の制度と親に対する尊敬という儒教の価値観は、夫々の家族の構成員に明確な目的を与え、個人が必要とするものより家が必要とするものが優先した。
面白いことに、これがしばしば女性の役割を子育ての分野を越えて広げた。子育ては母親だけでなく、家族全員の責任とされた。同時に家の生計の面倒を見るのは父親だけでなく、全家族の責任とされた。結果として、特に農村の家庭では女性の役割は重要で、農業や手作業に積極的に加わっていた。江戸時代の女性たちには、しばしば現在考えられるより大きな自由と権利があったが、これは全てその女性が所属する社会階級に応じて異なった。階級が下がる程、掟は緩やかだった。3
明治維新の諸改革はこれ変えた。政府が日本の家庭に介入したのである。性による差別が新たに作られるか、強化された。新しく成立した法律では、長男を法的な相続人と定めた。女性は参政権や財産権を失い、良妻賢母であるべきだと教えられた。序でながら、このスローガンは明治になってからできたもの。
この家庭の崩壊を更に早めたのは、明治維新には富国強兵というもう一つの最優先目標があったこと。新たにできた工場では、安価で有能な労働力が必要だった。家族が畑で肩を並べて働くのではなく、工場で別々に働くようになった。
最早家族の殆どが家庭におらず、子育てを助けることができなくなったので、女性は結婚すると家に留まるものとされるようになった。今でも日本の伝統的な性による役割分担と見られているものは、実際には明治時代に日本が「近代化」を推進した結果である。明治維新の諸改革は、男性、女性、それに子供を分けて、夫々に予め決まっていて硬直した役割を与えた。また家の制度を破壊することにも寄与した。既に1920年には、核家族は日本の家庭の54%を下らない割合を占めていた。4
脚注
1 Kiguchi, Junko. Japanese Women’s Rights at the Meiji Era. 2008年7月21日検索。
2 Department of History, Pacific University. The Japanese Woman. 2008年7月21日検索。
3 Penn State University. Good Wives and Wise Mothers 良妻賢母. 2008年7月21日検索。
4 Wikipedia. Ie (Japanese family system). 2008年7月21日検索。日本語バージョン(内容は少し違います)。
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引用文献
ドゥイツ・キエルト()1900年代・竹篭造り、オールド・フォト・ジャパン。2025年02月08日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/515/takekagozukuri)
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