この写真に印刷されている「茶屋」というのは、罪のない人を惑わすタイトル。実際に写っているのは、長崎の遊女屋で、提灯を吊るしているのが金波楼、その隣にあるのが玉島亭。
これらは長崎の丸山町と寄合町の遊廓に数多くあった遊女屋の内の二つに過ぎない。最も盛んだった時は、丸山町と隣の寄合町には54軒を下らない遊女屋と766人の遊女がいた。
人気があったことは、この写真に写っている金波楼の遊女の数から容易に推測できる。金波楼の玄関には遊女が二人立っており、それ以外に20人の遊女が張り出し窓に立っている。総数は恐らくこれ以上だったろう。しかし、日露戦争(1904~1905)後長崎はますます難しい時代に入った。1925年(大正14年)になると、金波楼の遊女は僅かに15人、隣の玉島亭は僅か10人だった。1
丸山と寄合は、とりわけ長崎に入港する船員に人気があった。これらの船員の大部分は、イギリス、アメリカ、フランス、オランダ、ロシアとプロシアからで、長くて往々にして危険な航海を終えたばかりで、それが彼等の振る舞いに表れた。
1868年(明治元年)10月に長崎に入港したアメリカ軍艦イロクオイ号に配属されていた一人の海軍軍医が、この振る舞いをあからさまに記録している。それにはアメリカ水兵が好んだゲームのことが書かれているが、彼等は地元では「ジョン脱ぎ」と呼ばれており、この名は日本語の着物を脱ぐことから来ている。このゲームは、「サイモンが言いました」を大人向けにしたもので、女性は負ける度に着物を一枚脱がされた。2
長崎でのこの楽しみとゲームは高くついた。多くの船員が淋病や梅毒などの性病やその他の病気に感染し、長崎の外人墓地で生涯を終えた者は少なくなかった。
この場所のその後の風景は、「1910年代の長崎 • 丸山遊廓」にある。
この写真の正確な場所は未だ確定できないので、このグーグルの地図では丸山地区の中心を示す。
脚注
1 幕末・明治期日本古写真メタデータベース。 丸山遊廓。 2008年6月6日検索。
2 Boyer, Samuel P. (1963). Naval Surgeon: Revolt in Japan, 1868-1869. Indiana University Press, 102-103.
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引用文献
ドゥイツ・キエルト()1890年代の長崎・丸山遊廓、オールド・フォト・ジャパン。2024年09月15日参照。(https://www.oldphotojapan.com/photos/489/maruyama-yukaku-01)
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写真番号:70820-0007
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